生姜生食

 いったいいついかなる時期においても根生姜を生食するのが一般的でないとしても―そして、その通りなのだが―、また、他に適した食し方があるというのが本当だとしても、それにもかかわらず、生姜をまな板の上において唯一すり下ろして薬味とする方針をとるべきだというのは、絶対的に誤りである。生姜の生食は次のことに利益を有している。(a)おかずとしての独立性、(b)生食の過程の中で、冷え性の体を温める効果、である。
 次のように反論する者がいるかもしれない。生姜を生食することにおいて選択されるべきは、その季節にかかわりなく、「葉生姜と新生姜である」という立場をとらなければならない、と。この反論は、貧しい食生活を送っている私に適応できるだろうか?
 いやできない。私の食生活においては、その目的は安価な食糧供給であって、美食の探求ではない。だが、根生姜の生食において言えるのは、それが安価でありなおかつ美味を有するということなのだ。
 そもそも生食派にとって、一般的な食品の調理形態は決定的なものではない。状況に応じて食材を自分の目的に利用する。しかし、固定観念に縛られた人にとって、それは野蛮すら意味する。生食は彼らにとって貧困と破滅を意味する。生食派はこれに囚われるべきではない。彼らの反発想を自分たちの利益のために利用するべきである。生食派が成果を収めることができるのは、中立の方針によってではなく、第1の敵たる常識派の発想を逆手にとることによってである。
 私は「生食者」である。「生食者」は根生姜を適当に刻み、醤油ないし酢醤油につけて食する。私は刻んだ根生姜にマヨネーズをつけて食する。だが同時に、お好み焼きの生地にすり下ろした生姜で風味を加える準備をする。こうした態度のみが、食生活の貧困的向上に接近することを可能にする。それともフランコ行きの船だけをサボタージュするべきか?