言葉無題

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070326-00000077-mailo-l06

県は国の法律用語を除いて県の公文書、広報紙などから「障害」の表記をすべてなくし「障がい」に改める条例案を2月定例会に提出し、可決された。

 俺は言葉狩りのようなものは大嫌い(id:goldhead:20070302#p3)だけれども、特定のどこかで使われる用語を時代の要請によって変化させることについては、おおよそ言葉狩り嫌いの中では寛容すぎるくらいかもしれない。ときに言葉を売るような仕事でもあって、お客さまがお望みならば「子供」だろうと「子ども」だろうと「こども」だろうと、どんな表記でもしてかまわない。そういう背景もある。
 しかし、それよりも、「言葉を言い換えたくらいで●●(差別、偏見など)は無くならない」……という意見に100%首肯できない。それが大きい。その発想では、あまりにも言葉が軽い。言葉を見くびっている。言葉の力だけで●●を変えることはできないかもしれないが、言葉の言い回し一つが、そのものに何らの影響を及ぼさないはずがない。□□という言葉を△△に言い換えなければ、という意識をさせるだけでも、意味はある。
 が、もちろんそれは□□という言葉を△△に言い換えることによって求められる意識が、社会的に望ましいものでなくてはならない。言い換えによって●●がより●●になったり、やはり逆に覆い隠される場合もある。その危惧は小さくない。むしろそちらの方が大きいかもしれない。下らない言い換えでいっぱいだ。だが、そちらばかりに目を向けて、一切の言い換え的要求・行動は言葉狩りだ、というのは行き過ぎのように思える。当たり前のことだがバランスだ。
 また、同時に、お役所が□□という言葉を悪しとしたからといって、自分の□□という言葉まで狩られたような気になるのは、自意識過剰ではないだろうか。先生に言われたことに絶対服従か。違うはずだ。□□という言葉を使うのは自由だ。ただ、それによって良識派っぽい人間に眉をひそめられたり、わかる人にわかってもらえたり、そういったことが付随してくるだけだ。別に□□が社会的良俗に反していたからといって何だ。あらゆる言葉の選択と同じだ。
 言霊だとか真言だとかいう話もあるが、言葉は意志疎通のための貨幣のようなもの、という捉え方も一方ではできる。そういう意味では、あるポリティカルな用語一つによって誤解や先入観を与え、主題を読み取ってもらえないくらいならば、本当は使いたくない‘良識的’言い換えを選択するのも一つの方便だろう。ただ、その選択があまりに多いのは不自由かもしれないし、逆に主題を覆い隠すこともあるかもしれない。むしろ、公共性の名のもとに、主題に関わるところの、ある種の用語を閉め出すことによって、特定意見の広がりにくさを意図するようなこともあり、その場合は用語の制限が真の不自由さに繋がるといえるだろうか。
 ところで、主題は言葉に過ぎないのだろうか。以心伝心の心の方のことだ。仏教では相手や条件によって説法の中身がかわる方便を、なんら低く見なさないというが、はたしてどのようなものだろう。
 ……なんか長くなってわからなくなってきた。俺が言いたかったのは、「害」ばかり問題視するけれど、「障」はどうなるのだということだ。「障」だって「害」に負けないくらい差し障りのある字かもしれないじゃないか。そこのところはどうなるんだ。「障」がかわいそうだ。これじゃ中途半端で意味がない。それに、中途半端な交ぜ書きは使いにくい。障礙や障碍と比べても面白くないチョイスだ。Gが駄目ならjpn。そのくらいの飛躍でこちらのハードルを飛越するくらいはしてほしい。