赤ちゃんポストについて考えてみる

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070406-00000004-san-soci

 親が育てられない新生児を匿名で受け入れようと、熊本市の慈恵病院が計画している「赤ちゃんポスト」(こうのとりのゆりかご)について、同市の幸山政史市長は5日、設置の許可を発表した。

 賛否両論の件、ついに市が設置を許可した。賛否はともかく、かような問題が広く世間に知れ、みなの関心と議論を呼んだことには意義があるように思える。……と、一歩退いて、一段上から事象全体を曖昧に評価するのは、なにやら冷静でかしこそうに見えていいかもしれない。しかしながら、それではおもしろくないし、俺はかしこそうに見せることをあきらめて、かしこくなさそうにすることによって、かしこそうだと思いたい、思われたい人間なので、あえて賛否の草むらに分け入って是か非か論ってみることにする。
 賛否以前にまず前提を考えよう。この件の発案者(日本にも設置しよう、という意味で)は、どこぞの慈善活動家や市民運動家ではない。現役の医師である。しかも、このご時世に産婦人科をやっている奇特な人間である。その人が、さらにあえて得にもならないことを引き受けようというのだから、出所の心持ちに疑いを抱く必要はないように思える。いわゆる、金や名声目当ての不純さはないといっていいのではないか。
 しかし、出所の心持ちがよければ、万事肯定されるべきかどうかといえば、否だ。人と人とが正しいと思うこと、必要と思うことで一致しないから、人間社会は万事治まらない。また、出所が正しくとも、やり方を間違うこともある。
 その点で、この件はどうだろう。俺はその点について、この病院の手続きに好感を持つ。我に道理ありといって、いきなり設置したりはしなかった。ちゃんと計画を役所などに届け出て、自らの考える正しさと、世間の通念との一致もしくは不一致、肯定されるだけの一致の量か、否かをはかったのだ。付加要素として世論を喚起したことを含め、これは真っ当なやり方であったと思う。自分が正しい、とくに聞こえのいい言葉について正しいと思うと、他人も社会もなにも見えなくなる人も少なくない中で、これは評価してしかるべきだろう。
 さて、動機とやりはじめ方が正しければ、それは正しいか。やはり、それだけでは決まらない。手段と目的が世間通念に肯定されるだけの一致がなければ、やはり是とするわけにはいかないだろう。
 目的はなんだろう。調べてみると、「捨てられ、失われる命を救いたい」とある。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/kyousei_news/20061129ik02.htm

 これは困った。だいたい書くことは決まった上で書く。そうでなくして書くことは無理だろう。で、一応元に当たってみたら、だいたいの変更を余儀なくされるものが出てきたりする。この場合は「失われる命」とされるもの。「中絶」だ。考えてみればここはカトリック系、中絶のことがないはずがない。ただ、世間的にこの話題、「捨て子」という行為自体にスポットが当たっており、あまり人工妊娠中絶の話は出てこず、俺も捨てる方についてばかり考えた。
 しかし、上の記事にあるように、捨て子200件、虐待死58人うち無届7人、対して人工妊娠中絶28万9127件(いずれも把握されている数で、実際は上積みがあるだろう)。人工妊娠中絶を殺しとする立場に立てば、数値化すべきでないものでないにせよ58対280000。どちらが、というものでないにせよ、病院にとっては中絶も決して小さくないはず。ポストには「中絶せずに産んでください」という意図があるわけだ。果たして、それは是か非か。それを考えるには、人工妊娠中絶は是か非か、どこまでが是でどこまでが非か。その考えが必要だ。これは赤ちゃんポストよりも一大事であって、俺には持ち合わせがない。全く無いわけでもないが、どうにもわからん。

 昔は、なにか受精卵をどうにかするもの、という印象で、カトリック教徒はなにかわからないことを言っているというふうに感じていた。が、たとえばちょっとgoogle imageで「abortion」と入れてポチっとすればわかるように(※ぶっちゃけグロ注意)、かなり形のあるものをどうにかするものだ。断っておくが、この件に興味を持ったのはセックス・ピストルズの曲からだ。
http://www.seeklyrics.com/lyrics/The-Sex-Pistols/Bodies.html

http://en.wikipedia.org/wiki/Bodies_(Sex_Pistols_song)
 しかし、それでもやはり、望まれぬ子の生まれることの不幸もある。一概に否定できないように思える。重度な障害が明らかなケースだってある。どこからか人間か、という問いも難しい。肯定するなら、最低限伊勢佐木町のポリバケツから出てきたらちょっと驚くようなものだ、という認識の上で肯定すべきかとも思うが、その認識が逆に不幸な妊婦(たとえ本人の快楽志向と無知が引き起こしたとしても。いや、それゆえに不幸、かもしれない)をより追い詰めるようなことがあるのもよくないように思える。もしも人殺しとするならば、やはりそれだけのことである。さらには、もし人殺しとして認めるとするならば、認められる人殺しは是か非かと、分別地獄に陥っていく。

 というわけで、赤ちゃんポストに帰れなくなったので、保留。やっぱ書いてみなきゃわからんね。

 だが、ちょっと待ってほしい。中絶を巡る動機を脇に置いて、捨て子を巡る赤ちゃんポストを考えてもいいのではないか。いいということにしよう。
 目的は、捨てられる子の命を救うことである。これは是か非か、社会通念、社会合意に沿うか。たとえば、少子化問題というのがある。子供が少ないのは問題だということである。多いにこしたことがないならば、せっかく生まれた子供が便所に流されて失われるよりも、生きて育ってくれたほうがよい、ということになる。もちろん、なにもそんな風に考えずとも、生まれた赤子には育ってもらいたい。それは理屈以前のことだ、といってはいけないだろうか。ともかく、その目的は是ととりあえず見なして構わないのではないか。赤ちゃんポスト反対意見の立場に立っても、生まれた子に死ねというのは、論議に値しないと信じる。
 では、何が賛否両論になるのか。手段だ。赤ちゃんポストができたことによって、親が簡単に子を捨てるという結果に繋がる、という論だ。しかし、それはステージの違う話ではないのだろうか。「生まれた命を救う」という最低限のラインと、「誰が育てるのか」というラインは違う。「親が育てられない以上、赤ん坊は死ぬべき」の論でない限り、こちらの否があちらの是を覆すことはできないのではないだろうか。俺はひとまずこれをもって、赤ちゃんポストの設置に賛同する。
 が、やはり「誰が育てるのか」ライン上の問題も考えてみよう。子供は実の親に育てられるべきなのか、と。安倍首相は「許されないのではないか」という。その前提には、「実の親は実の子を生かす、育てる」という発想があるのは疑いようがない。しかし、それはあまりにも楽観的であり、人間を善いものだと思いすぎているきらいはないか。昨今の、と限ろうと限ることなかろうと、子を虐待して、死に至らしめる親がいる。言ってみれば、たかが偶然の血縁関係、誰も親が子を選んだわけでも、子が親を選んだわけでもない。そんなかりそめの関係、そんなに信用できるものではない。例え自らをもらい子と知らず、親を親と思って生き抜いた人がいたとして、血統上の齟齬からそれを偽りといえるだろうか。
 とはいえ、別に俺は血のつながりを否定せよ、家系、家族を分断せよ、というわけではない。自らの血や実の親を思う気持ちもまた人として当然のことであり、軽んじていい縁ではない。ただ、ただですよ、この場では「捨てられて死ぬ子」と秤にかけられているのだ。そこで、「血の繋がった家族はこうであったらいいなあ」という願望と比べて、前者と否定するまで重くはない、ということである。もちろん、親なき子として施設などで育つのが、万々歳の環境であるとはいえないだろう。ただ、遺棄されて死ぬよりは、子を育てることのできない親のもとで育つよりはマシではないだろうか。誰かの子でなくとも、日本国の子として生きる、それが遺棄死や虐待死よりマシでないとしたら、この国に論じる価値はない。日本はそんな国ではないと信じる。
 そしてもちろん、赤ちゃんポストが「誰が育てるのか」のステージの答えではないのも確かである。そのステージ上において、首相なりなんなりが、「できるだけ実の親に育ててもらおう」という目的に向かって努力することは、おおいに望まれることだと思う。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070405ic26.htm

 熊本市の「赤ちゃんポスト」設置許可を受け、厚生労働省は5日、都道府県などに対し、「保護者が子供を置き去りにする行為は、本来あってはならない行為」と指摘したうえで、出産や育児に悩みをもつ親のために児童相談所や市町村などが設けている相談窓口の周知を徹底するよう通知した。

 この、本来ならざることになる前の努力だ。赤ん坊を手放すといっても、個々のケースに応じて千差万別の段階がある。赤ちゃんポストのステージ、レベルは、その中のごく一部、一番最低限のところに作用するにすぎない。捨てるまでもない段階の子まで手放させるようなことがあってはならないのだ。しかし、それがあってはならないからといって、赤ちゃんポスト自体は否定してはいけない。そのためにも、いろいろの段階に応じていろいろのポストが用意されるべきであり、もしあるのに活かしきれていないのならば、徹底に周知させる。別にポストと相談窓口は相反するものでもない。困った人がいたときに、幾層もの網が張られ、適所に救われるように充実させるというだけだ。もしも行政の支援によって捨てるよりも育てるメリットが多くなり、赤ちゃんポストが形骸化するならば、それが望ましい。世の中には親子の愛情にあふれた裕福な家から、愛情あり金無し、その逆、どちらもなし、ともかく千差万別の形がある。千差万別に合わせて千差万別の仕組みは作れなくとも、十だか百だかの網は張って、赤ん坊がうっかり便所に流されない工夫してしかるべきだろうと思う。