小さく死ぬ前にやっておくべきことについて

歌手森山直太朗(32)が24日、東京・C.C.Lemonホールで全国ツアー最終日を迎え、賛否両論の新曲「生きてることが辛いなら」(8月27日発売)を歌った。同曲は冒頭の「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい 恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り」をめぐり、テレビで初披露してから1000件を超える賛否の書き込みが続いている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080725-00000010-nks-ent

 この曲のことは知らないが、歌詞を最後まで見てみれば決してこの一節が本意ではなく、応援ソングみたいなもんであって。
 それで、死んだところで再び生老病死愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦から逃れられる保証はどこにもないわけだけれども。それともあなた、葬式して坊さんにお経をあげてもらえれば、それで浄土へ行き、悟りを開いて解脱できるとお考えで? 案外そうかもしれない。でも、死ぬ前に葬式を出すだけの金くらい貯めておかねばならんので、俺はまだ死ねないような気もする。そうは言いながら、今日の帰り道、ダンプカーにぶっ潰されて死ぬかもしれないので、「死ねない」などというのも自信過剰の物言いであって。ともかく、この意識の連続のうちに「全ての賢者が追い求めたしあわせの明白な道」ロード・ダンセイニ魔法使いの弟子』より)を掴んでおくに越したことはないようだが、そんなのは魔法使いにもむつかしい話であって。
 通り魔事件などがあって、その動機が自分や社会への絶望であったり、死刑願望であったりすれば、だいたい「いっそ小さく死ねばいい」という声が聞こえる。まあ、確かにそうだろう、俺も歩いててブッ刺されたくはない。あと、硫化水素とかに巻き込まれるのもつまらない。
 ただ、その背景には実際に小さく死んでるものっそい数の人間がいるんじゃねえのって、そんなことを藤原新也が書いてて、たしかにそうだよなあって思う。もちろん、人間の行動の動機なんて、どこまで均せるものかわかりはしないけれども、死んで死んで死んで行く中で、ひょっこり殺したかったり殺されたかったりする突然変異みたいのが氷山の一角として浮上するって見方もできるかもしらん。
 じゃあ、俺たちはどう生きればいいのか。俺たちっていうと、どういう俺たちって、どちらかというと死んだり殺したりする方の俺。そういう事件で殺される立派な人たち……、不幸にして通り魔に遭ってしまった人たちは、本当に惜しまれるような人が多い。なぜだろうか。俺は「負のオーラを持って凶行に及ぶ人間は、正のオーラを持つ人を見分けられるし、それを狙うのではないか」という仮説を提出する。しかし、「世の中にはきちんと生きている人の方が確率的に多いのだ」と言われ、そうかもしれないとも思う。俺が刺されたところで、まだ二十代ということと、一応は正社員という身分によって、いくらかはマシな方に分類されるかもしれない。
 でも俺はやはり俺が死ぬ方か殺す方、死刑になりたい方であると信じて疑わない。なぜ俺は負けているのか、あるいは、負けた人間がどう生きるべきか、その「べき」は提出されうるのか、また改めて考えよう。
 いや、考えて考えて、そればっかり考えているから、鹿狩りの技術を会得することもなく、しあわせの明白な道から遠ざかっているのだ。わかるか、今、忙しい。明日も出勤するのは当たり前に。