銀シャリの思い出、胚芽米の無洗米

 僕が物心ついたとき、食卓に上がるご飯は黄色がかった胚芽米だった。全体的に黄色っぽくて、よく見ると目みたいに黄色い点がある、胚芽米だったのだ。よそで食べるご飯は白かったが、それは何か別物で、とにかく我が家のご飯が栄養によい、デフォルトだと思っていたのだ。
 それがある日、突然、白米、ぴかぴかに輝く白米が食卓にあがった。その当時は自分の辞書に無かったが、あの光景を思い出せば「銀シャリ」という言葉がぴったりだ。「ご飯ってこんなに白いものなんだ!」という驚き、そして、今まで自分が食べていた胚芽米が、少しみじめなものに思えたのだった。
 たまたま胚芽米が売り切れていたのか、母がどうして白米を買ったかは忘れてしまった。ただ、「やっぱり白いご飯はいい。コシヒカリはおいしい」などと言う。すると父は「あれ、お前が好きで胚芽米なのかと思っていた」などと言うではないか。
 つまりは、父が何かの気まぐれで「これからは栄養のいい胚芽米だ」という方針を打ち出し、母もそれに納得するなりし、それ以来、惰性的に胚芽米生活が続いていただけだったのだ。母は内心、白い米が食べたいと思っていたのかもしれず、父も自分の気まぐれを忘れ、毎日毎日胚芽米を食べさせられていたのだ。
 となると、その方針決定時を知らないで、物心ついてからこの方、胚芽米信仰を抱いていた僕はどうなるのだ。僕にはなんの違和感もなかったし、それがご飯だったんだぞ。いやはや。
 それ以来、我が家の食卓に胚芽米があがることは一度もなかった。一度たりとも。
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 さて、そんな我が家が失われて数年、僕はスーパーで胚芽米の無洗米を発見したのだ。胚芽米なら見たことはあったが、胚芽米の無洗米ははじめて見た。値段を見てみれば、ほかの無洗米とまったくかわらない。むしろ、数十円安いくらいだ。僕は迷わず購入を決めた。
 その米がはじめて炊けたのは、今朝のことだった。弁当に詰めるため、夜にしかけておいたのだ。ピー、ピー、ピーと炊飯器が鳴り、僕はふたを開ける。二十年ぶりくらいの再開だ。一目見て、ああ、黄色い、と思った。
 ……というと話は通りやすいが、なかなかうまくいかないものだ。僕は先日、部屋の蛍光灯を暖色のものに変えており(id:goldhead:20070522#p5)、それ以来、米は黄色かったのだ。その上、雑穀など混ぜて炊くのが好きなのだから、見栄えのインパクトはあまりないというわけ。それでも、なんとなくなつかしい香りがしたようには思ったんだけど。
 そのご飯をはじめて食べたのは、さっきのことだった。普通の蛍光灯の下で見ると、なるほどこれは胚芽米にほかならない。目がある。味はといえば、いや、米の味を云々できる自分ではないけれども、白米より「無味乾燥ではない」という気がする。これには満足した。
 むろん、白米はおいしい、が。おいしいが、どうも何か物足りないというところがあった。そのために、雑穀ブレンドなどするくせがあった。つまりのところ、幼い日の胚芽米、それに対する思いがどこかにあったんだろう。
 これからは僕の方針、僕の号令で、違和感なく僕の食卓に胚芽米があがる。自炊と独り暮らしはいかにすばらしいか、そんな結論に達してもいいだろうか?