死刑と私、あるいは光市母子殺害事件について

【主文】
 第1審判決を破棄する。被告人を死刑に処する。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804221753029-n1.htm

 死刑……、死刑自体については自分の中で結論づけられていない。考えが足りない。おおよそ頭で考えうる限り、廃止を否定するような、これという理由は出てこない。が、それでもなお結論づけられないようにするものは何か。理に対するものとしての情だろうか? 感情だろうか? そうなのかもしれないが、そうではないように思える。まだ理の面で、自分の中で、自分にわかる程度のレベルで、まだ言葉が尽くされていない。考え尽くされていない。死刑というものの背後にある、生命とは何か、人間とは何か、社会とは、国家とは……、そのあたりを尽くした上でなければ、まだ俺は俺を納得させられない。というか、法と刑罰、その入口の時点で知らないことが多すぎる。こう大風呂敷を広げて、俺程度の知性や学でどうにかなるとは思えないが、やはり尽くされていないところがある。そう思えてならない。
 しかし、現状ではこの日本に死刑がある。その国家の一員として、賛否保留することは現状の追認であり、死刑肯定に与するのではないか……、それならばそれでよい。俺は日本国民の一員として死刑執行のサインの一端を担おう、死刑執行のスイッチに加わる圧力の一部となろう。人殺しとそしられようとも、それはそれで引き受けよう。それで構わない。そういう意味で死刑容認、許容、あるいは賛成派ととられても構わない。
 また、これは本村さんや世論の意見などに影響されたものではない。俺はそこまで人間に感情移入できるような、ハートのある人間でもない。斃れた一頭の馬のために、轢き殺された猫のために涙を流せても、人間には無理だ。その点で、俺が人間や人間社会について考える不毛というか、絶対的に無理な点があるのかもしれない。人間嫌い。その点においてまた、死刑囚に対しても全く優しくなれない。この点では妙にフェアかもしれないが。
 こういう人間に対してどこか感情を欠く点、欠くポーズを作ってしまう点、おそらく動物の、植物の持つイノセンスに対する信仰に近いもの、あるいは人間の非イノセンスを嫌悪する点に起因する。あらゆる生命もまた他の生命を殺して食わねばならない、そう空じていくことができるだろうか。それも、死刑に関する考えの浅さと同じく、ブレーキがかかる。そして、自分自身のイノセンスでありたいという自己愛から抜け出せない。それでもやはり矛盾を抱えて生きていくよりない。そうやって開きなおって肉食だってして、娯楽のための馬殺しでもある競馬まで心底愛して、それは結局、上に書いた死刑に対する開き直りと同じであって、畢竟ずるに俺などはそのようにしてさしたる中身のないまま曖昧な態度をとりつづける我というものに固執しながら、一生を終えるのだろう。俺には知を究めること、自我を空ずること、いずれにしても才が無く、力が無く、覚悟が無い。無い無い言う憐憫、自己愛、それを直視することもなく、軽く口に出して開きなおる自己愛、まさにここ、この一点の自己肯定による自己否定、自己否定による自己肯定、どうにかならないか。
……
 ……話が逸れてしかたない。光市母子殺害事件最高裁差し戻しの際の強烈な文言からも予想されていたことではあるけれど、死刑判決が出た。この判決を前にして、一つドキュメンタリを見た、数日前の深夜、TBSだったと思う。この事件の被告少年を追うジャーナリストを追うといった内容。どちら寄り、という言い方は適当かどうかわからないが、被告人寄りといっていいだろうか。ただ、たとえば被害者と少年の住んでいた場所の距離のあまりの近さや、他の家にも水道工事を装っていたずらを繰り返していた末、被害者宅に辿り着いたなど、知らないことも多かった。なるほど、計画性という点では疑問を持つべきかもしれない。
 いや、そういうさまざまのことはどうでもいい。どうでもいいと言ってはなんだけれど、なんなら生い立ちや環境が少年にひどい悪影響を与えたこと、彼が成人と呼ぶには未成熟すぎたこと、犯行が突発的であったこと、なんなら再生の儀式やドラえもんまで受け入れてやってもいいだろう。そういった弁護人の主張をすべて受け入れたとして、なお、俺は……、この国の最大の罰を適用するに不適当とは思えない。やはり、人が二人殺されているのだ。
 そのドキュメンタリの被写体であった綿井健陽というジャーナリストは、その点を「思考停止」と言い表していた。が、どうだろうか。やはりそこから思考が始まらなければいけないのではないか。本村さんが言ったとおり、罪に対する罰は、刑法に記されていること。いや、刑法には無期懲役とも書かれているか。あと、傷害致死というものもある。あー、駄目だ、ここのところの筋道がうまくわからん。うー、だから、罰から何かの酌量材料を足し算していった和を引き算して、それで、罰を免れるってのは、えー、しかし、たとえば情状酌量というものがない、法制度というか司法というか、そういう社会はディストピアとしか思えない。が、とはいえ、このような、殺人について、いや、弁護側の言い分を飲むとすれば、殺人ではないのか、ああ、困った。でも、俺は殺人と判断せざるをえないし……。
 じゃあ、さっき受け入れてやってもって言ったところの範囲を、背景と動機とか、内面、そのあたりだけにしよう。そういった事情があったとして、果たして引き算の材料にすべきかどうか、と。やはりどこか、生命という究極のところに対する……生命のみが究極だろうか? 人格、精神、心、脳、知性を壊して戻さなくすること、それはどうなるのだろう。心臓の脈打つことだけが人間の人間たらしめるところだろうか。人間とはなんだろう、生物としての人間、そして法の対象となる人間とは。
 話が逸れた。仮に生命に対する罪があったとして、それを損なわせたところから引き算できるような情状酌量の余地があるだろうか。たとい彼の生い立ちに不幸があったとして、彼自身の社会人としての成熟が人より劣っていたとして……彼がまさしく子どもと同程度の理性、知性しか持たなければ、罪は許される部分があるのであろうか? ここもよくわからない。たとえば、知的障害者による殺人、これはどう見なせばいいのだろうか。殺人の意味も、罪の概念すらわからぬ人がいるとして、彼が犯した罪は、罪と呼べるのか。罰とは何のためにあって、彼に与えられる、あるいは見過ごされるとして、その意味はなんだろう。わからない。彼を他の多くの人と同じように裁くのが、彼を人間と見なすことではないのだろうか。それとも、法的には裁かれる人間として見なされなくとも、人間としての彼は損なわれないのであろうか。いや、たとえば後見人制度などがあるように、権利や義務を制限されようとも、確固として基本的人権のようなものは保たれているのであろうが。いや、まるでわからん。困惑する。
 話が逸れた。たとえば今回の彼は、どうもそこまで知性が劣っているようには見えない。たとえば、獄中からの手紙、例の問題となった箇所以外の部分を見ても、彼の文章力や筆跡(俺の筆跡と比べたら、どれだけ彼は大人だろう)からは、決定的に問題となるほどの知的な差異、世の中との差異もないのではないか。そういう人間が、そうだ、彼は人間だ、人間が、突発的であって変な妄想に取り憑かれたとして、一方的に他人を害し、殺し、犯し、財布を持って逃げたことに対して、どれだけ引き算をしても、決定的な引き算にはならんのではないか。そこは、たとい最高刑が死刑でなく終身刑であろうとなんであれ……。
 と、どうしてもやはり、何かをどこかに置いて、もしやifを重ねても、個別の事柄に対して、個別の俺の判断というか、そういう次元からは逃れられないし。となると、裁判にかかる資料という資料を見なければやはり尽くされないところがあって、なおそれでも判断を保留しつつ現状を追認するかといえば、論が不十分でありながらも彼を罰せよというところに落ち着くというところは認めなければいけないのだが。
 いや、もうバラバラながらともかく言いたい部分だけ書いておくと、判決の次の部分に関わるところ。

被告人は、強姦および殺人の強固な犯意の下に、何ら落ち度のない2名の生命と尊厳を踏みにじったものであり、冷酷、残虐にして非人間的な所業である。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080422/trl0804222049047-n2.htm

 この「非人間的な所業」というところが引っかかる。これがおかしい。「非人間」を人間が人間の法でもって裁いてどうするのだ、何か意味があるのか。彼が人間であって、人間としての悪行、弱さ、欲望、無知、非合理、人間の所業をしたところによって、人間によって裁かれるべきではないのか。人間の業として裁かねばならないのではないか、我々が。もし、死刑回避の理由として取りあげられそうな、反省や改悛の情を真に持ち、それを表明したとしたら、それゆえに彼が人間であって人間として裁かれる理由ではないのか、と思う。この矛盾、この業のようなもの、生命に関わる人間の業、それを裁こうという業、ここのところに、たとえ国家や法といった重大事が大きく介入しつつも、なにか人間の究極のところというものの何かが、消息あるのではないか? ……と、俺が感じていて、それによって、俺はどうにも死刑のメリット、デメリット、取るに足らぬ知性による考え、あるいは感情とも別のところで、死刑について容認するところがあるのではないか。ろくでもない話だが、死刑を見たがっているのではないか。とりあえず、その感じを覚えておこう。

追記______________________

もし被害者遺族の男性の言うように、弁護側の主張が「荒唐無稽」であると裁判所が同じように認定した場合、なおかつ検察側の最終弁論で述べられている「当審における審理の結果によっても、被告人につき死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情は、これを一切見出すことができない」と裁判所が同じように判断した場合は、私はこれまでの取材などで書いたこと、発表してきたことなどの責任を取って、すべてのジャーナリスト活動から身を引くことにした。
僕もそれぐらいのことを背負う覚悟はある。

 これはすごいな。果たしてこれがジャーナリストとしてかくあるべしという態度なのかどうかはわからないし、果たしてこのような態度を取らざるをえないような言論がジャーナリズムなのかどうか、そもそもジャーナルが何であるかわからないのでなんとも言えないが、その覚悟は尊敬できるのではなかろうか。
関連______________________

  • 母さんどうして人は人を殺すの?……死刑について。
  • この世や天国や地獄……この事件について。「今までの取り調べや裁判、あるいは獄中からの手紙」なんて、全然情報に当たってないくせに、いい加減なことを言っている俺。しかし、それはともかく、テクニカルな問題として、安田好弘をはじめとする最後の弁護団オウンゴール的に彼をデッドラインの向こう側に押しやったという感じはする。弁護士が世間を相手にすべきかどうかはわからないが、安田弁護士が、世間に理解してもらいたいという姿勢を見せていたかというと……。もちろん、マスコミの取りあげ方、切り取り方に問題がないとは言わない、しかし、その点でも。そして、解任された弁護士の、情状酌量路線が死刑回避の方針としては合ってるように見える。さっき情状酌量みたいなものを否定しておいてこういうことを書く俺もいい加減だが。
  • 掘り返された電話機の記録……どこまでを人間とするか、正常な心神とするかは、現状の法では不十分で、あるいはSF的領域にまでいかなくてはならないのではないか、とは半ば本気で思う。
  • 予告されない殺人の記録……フアン・カルロス・ピサロ・ヤギの事件。魔に差された人間は、魔の責任も負うべきかどうか。どのくらいの魔が、どこから来るのか……。