確信犯グリーピース、あるいは法と私について

日本の調査捕鯨で捕られた鯨肉を乗組員が無断で持ち出している疑惑について、環境NGO「グリーンピース(GP)・ジャパン」が15日、東京都内で記者会見した。船から配送されたという段ボール箱に入った塩漬けの肉を「証拠品」として示し、疑惑解明や調査捕鯨の見直しを訴えた。

http://www.asahi.com/national/update/0515/TKY200805150114.html

 この件。捕鯨、あるいは調査捕鯨そのもののあり方についてはひとまず置いておく。……ということについて、「不都合なことに目をふさいで、一方的にグリーンピース攻撃をするつもりか」という考え方もあるだろうが、俺がここで興味あるのはグリーンピース・ジャパンのやり方であり、組織のあり方なので、そう思われるならそれでいい。あと、俺は調査捕鯨は欺瞞だと思う。やるなら堂々と商業捕鯨と銘打ってやるべきだ。
______________________
 この件でグリーンピースが批判にさらされているのは、西濃運輸が引き受けた荷物を無断で持ち去ったということ。すなわち窃盗。やり方によってはプラスアルファの罪状もあろう、その点。やはり俺はそこが一番引っかかる。もちろん俺とて清廉潔白、金甌無缺の人間ではない。イエス的な何かに「お前は石を投げられるのか」と言われたら、果たして投げられるだろうか。もちろん人並みの遵法意識くらいはあるように思うが、かといって、「グリーンピースは法をやぶった! けしからん!」という怒りがあるわけではないのだ。むしろ、名の知れたNGOがここまで堂々とやるからには、何か法的な後ろ盾があるのだろうか、判例があるのだろうかという興味。法律論的な何かだ。

同席した弁護士は「横領を告発するための行為で違法性はない」と主張している。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080515-OYT1T00358.htm

 が、どうも具体的な筋道については記事になっていなかった。そして、今朝のワイドショー。自分が見たのはテレビ朝日で、昨夜の報道ステーションではグリーンピースの主張と告発を伝えるのみであったが、今朝の番組では打って変わって批判的論調がほとんど。その中で、GPJ(打つの面倒なので勝手に略します)の佐藤潤一さん(だと思うが)のインタビューが出たのだけれど、そこで「法治国家に住む以上、罪に問われれば甘んじて受けたい」云々。それ、それが怖い、俺はそう思わざるをえなかった。
 これこそが誤用ではない確信犯。法を破ることの正義を確信しているのだ。これが怖い。
 むろん、今現在の日本の法が神に授けられた永久不変の正義などということはありえない。また、法律の文面と実際の運用に差があったり、あるいはこの件でもGPJの罪が不問になる可能性、法、法解釈があるのかもしれない。ただ、その上で、やっぱりこれでは話が通じないのではないか、そう思わざるをえない。法治国家とその法に価値をおくのであれば、裁きを受け入れる前に、破るなと(「破っていないのだ」という論拠があるならば、まずそれを述べるべきだろう)。確信の上、故意に破って、今さら言うなと。
 もちろん、ときに正義のために法を意図的に破るべき局面もあるかもしれない。しかし、たとえばそれは、よほど人命に関わる緊急の要件であるとか、国を揺るがすような巨悪であるとか……。もちろん捕鯨を悪とする立場において、これは何ものにも替えがたい大事態だ、という価値観があるのかもしれない。しかしそれは、やっぱり俺には納得できない、少なくともこの方法を選ぶほどのものには見えない。そしておそらく、今回の件についてGPJ支持が過半数を超えることはないと思うのだが。内部告発者まで抱えていたのなら、こんな方法を採用する必要があったのかどうか。彼らの中にブレーキは掛からなかったのか。
 彼らと私。彼らの価値観と私の価値観。日本人の価値観、などという広く共有される概念はもう無いのかもしれない。それぞれの共同体、組織、団体、グループ、社会層、年代、レイヤー、セクトなんだかわからないが、それぞれのそれらがあって、それを横断するようなものはあるのか。
 ……む、どうも俺は、そこに「法」がある、とりあえず日本国内においては日本の憲法を、法律をベースにしようぜって期待があるのかもしれない。とりあえずあなたたちと私たちで話す言葉の意味は大いに違う、考えも違う、やることなすこと違う、違うけれど、とりあえず、それは永遠に不完全なものかもしれないし、解釈で分かれて争う可能性もあるけれど、とりあえず法の枠内でやろうぜ、その前提だぜって、そういう思いがあるようだ。言論の自由の中でやろうぜ、暴力はやめようぜ。
 もっと大きな正義、大義、正道を見ている人からすれば、俺などは下らない教条主義のパリサイ人かもしらん。ともすると、俺は法律に律法的なもの(だったかな? 「殺したらこれこれの罰」でなく、「殺してはならぬ」の価値観)すら求めているだろうか。それはちょっと、法を過大視しすぎているのかもしらん。しかし、とりあえずのルール、話し合いのプロトコルとして、法の中でやろうぜって。
 そういう意味で、今回のグリーンピースの振る舞いには、怖さを覚えた。人道を大きく踏み外すようなことをしたわけではないが、俺がかなり広く取りたいと思う範囲の外にあるように見えたからだろう。範囲の外だからといって、怖がったり蔑視したりするのもまた大きな義があるとすれば、そこか眉を顰められることかもしらん。もちろん、日本の法とて世界という一段と広いところから見たら、限定されたコミュニティ内の、特異で偏った、あるいは誤りそのものである部分もあるかもしらん。しかし俺は、自分をそこまで拡張することはできない。少なくともこの件で、GPJの方法が即座に肯定されるような回路はなかった。見る人が見れば無知・無学、開発されていないけつの穴の小ささということになるのだろうが、かといって高見に立ってグローバルだのなんだののお題目を振り回すふりもできないし、そもそもそんなこともしたくない。俺が矮小なら矮小なのが俺だ。
 というわけで、やはり俺は怖い。彼らが環境保護のために人殺しをしたりするとは全く思わないが、それでも怖い。軽々とラインを乗り越えてしまって、平気でラインを乗り越えてしまったように見えて。たとえば、彼らのリリースの中に、いかに法を破ることへの抵抗があっただとか、あるいは日本国の法にこれこれこういう理由で反していないのだ、という説明があっただとか(たとえばこれが司法の上で認められれば、「怖さ」については解消される部分は大きい。思想への賛否は保留するとして)、告発と同時に出頭するなどという行為があれば、その活動内容に批判的な感想を抱こうとも、この怖さはなかっただろう。もちろん、俺が法に対して抱こうとするものが、他から見れば俺がグリーンピースの価値観(を実現するための方法論が持つ価値観)に対して感じる怖さと同様のものやもしらん。しかし、ときに歩行者赤信号を無視する俺でも、どっかしら法はあるぜって、そう思えてならんのだ。
関連______________________