はたして北京五輪がこのまま成功してしまっていいものか

鳥の巣近くで『チベットに自由を』 垂れ幕の英米人拘束 国外退去

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008080702000124.html

 チベットにおける虐殺行為とそれに対する抗議も、四川大地震の大災害で一つ蓋が閉じられたような気になってしまっているが、いぜんとして中国共産党によるチベット人への弾圧、チベット文化の圧殺は続いているし、あるいはオリンピックそのものが大きな大きなデコイとなって、陰でさらなる弾圧が進むやもしれない。さすがにこの段階にあって、出場選手たちにボイコットを求めるような気はなくなってきてしまったが、果たしてこのまま北京五輪が滞りなく開催され、閉幕していいものかどうかという疑念のようなものが頭をちらついている。

ダライ・ラマ法王特使ロディ・ギャリ氏は「北京オリンピックが無分別な妨害を受けることなく開催され、中国が国家としてさらに自信をつけることはチベット人にとってもよい結果をもたらす」と述べた。

http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080724_gyari.html

「中国は大国です。経済的にも政治的にもその力をさらに増しつつあります。ところがチベット問題のようなこととなると、まるで自信がないのです」

 これがダライ・ラマ法王の、チベット亡命政府の見解であって、これこそ仏教を弾圧するその相手すらも拝むという仏教徒的態度ではないかと、僭越ながら思う次第なのであって、事実がこのように、すなわち五輪開催によって中国政府が人権面や平和の面でも先進国、もちろん先進国と自負する我が日本やアメリカその他の国がどれだけ立派かというととんでもないといった面が、問題が存在することは否めないけれども、目くそと鼻くそのどちらがましかはよくわからないが、やはり日本と中国を比べたら日本の方がまだましなくそであることについてはくそなりの自信を持つとして、まあこちらの常識の範囲に入ってきて、チベットその他の異民族に対しても大国の寛容さを持つようになれば言うことはない。
 ……のだけれども、そう簡単にいくかというといってほしいながらも少々疑わしくも思い、むしろ逆の方に針が振れて固定されてしまうのではないかという、そんな予感を昨今の報道から抱かないわけにもいかない。各国のとりあえず五輪だからという配慮の中、テロ対策を標榜する異民族弾圧や自国民への監視、政府批判者への取り締まりや、住民への強引な立ち退き要求、毒ギョーザ事件へのほっかむりなど、これらが「とりあえず五輪」の後にも、「あれで五輪が大丈夫だったのだ。五輪は成功したのだから、われわれは今のわれわれのやり方で先進国になったのだ」と、そんな自信をつけられてしまうのではないかという心配だ。あの巨大国家のきしみがさらに進んでいって、暴発するようなことがあれば、あの大陸がどうなるのかというと想像がつかないが、日本に影響がないということはありえず、それは単に地理的な距離などというものではなく、この不安定な世界経済に致命傷を与えかねないことではないだろうか。
 だからといって、風船が大きくなりすぎて破裂する前に針を刺して、被害を小さくするようなことがいいことなのか、それができるのかどうか。すなわち、五輪を不成功させて何かよいことがあるだろうか。何をもって成功、不成功と言えるかわからないところもあるが、たとえば大勢の被害者が出るようなテロが起こってはならないし、競技者の努力が台無しになるような事態も見たくはない。では、いったい、どんな方法があるというのか。五輪は成功しつつ、しかも中国に対して考え方をあらためさせるようなアピールとは……。
 もう、ここからは夢想、妄想の話であるが、私が想像するのは、そのたった一つの冴えたやり方とは、ユーモアによるものではないかと思えてならない。フィリップ・K・ディックが『いたずらの問題』で描いたようなユーモアカート・ヴォネガットが描き続けた何か。私にはそんなSFじみた妄想しかできないが、中国共産党幹部すらもくすりとさせ、考えをあらためざるをえないような、そんな何かが起こりはしないかと、寸毫の期待をいだきたいと思う。もしそれが世界を代表する人類ともいえるアスリートたちの手によって行われたなら、さぞかしすばらしいものとなるだろう。現実には政治的な交渉の積み重ねや懸命で地道なアピールを続けるよりないのかもしれないが、決定的な一撃、誰も傷つかないような一撃を私は夢みたい。愚かで、非現実的でも、一発の爆弾で嫌いな存在が消え去るような想像よりも、こっちの方がずいぶんましじゃないかと、このくそは思う。