クライシス916

 その日は、朝肌寒くてジャケットを着てきたのだった。それをすっかり忘れて退社、スーパーで買い物をして、その帰りの道中それに気づくもそのまま帰ることをやめなかったのだった。
 アパートの部屋の前に着いて、はじめて嫌な予感がした。部屋の鍵がないのであった。僕の脳は即座に職場のハンガーに走った。遠視するまでもなく、ジャケットのポケットに入っているのだった。それが、上着を着るときの習慣なのだった。あわててケータイで会社に電話しようとしてまた気づいたのだけど、ケータイもジャケットの胸ポケットの中にあるのだった。
 僕は途方に暮れる。とりあえず、買い物袋を外置き洗濯機の中に入れる。入れてからあらためて思うに、ピンチだ。僕は、電話番号を三つしか頭の中に記憶しておらず、それは「1.自分のケータイ 2.自分の会社 3.中央競馬の払い戻し情報」であって、合い鍵を持っている家族だとか女の人だとかの番号は、どこをどう探しても出てこないのだった。ただケータイのメモリの中にあるのだ。ノー・ユビキタスのこのデバイス、無用の長物。
 とにかく走るしかない。公衆電話から連絡を取ってみるしかない。公衆電話? どこ? あの通りの、あまり通らない薄暗いところにあったかなかったか。いずれにせよ、走るなら関内の方。いざとなったら、漫画喫茶で一夜を明かすよりない。会社の鍵も、ポストの裏に隠してあるとかの不用心はしていない。
 ともかく走って、目論見どおりのところに、嘘みたいに薄ぼんやりと光る緑色の公衆電話を見つけた。受話器を取るのと硬貨を投入するのとどっちが先だったのかわからないほど久々の公衆電話なのだった。慌ててダイヤルすると、「コノデンワワ、ゲンザイツカワレテ……」などと言って焦ったのだけど、落ちついてダイヤルしたら、今まさに帰り支度をしている車持ちの人が出てくれたのだった。「フハッ、間に合った! たまに送ってくれるあたりまで、上着、鍵とケータイ入ってると思うんで、持ってきてください!」。
 そして僕は、暗い通りで車を待った。ときおりタクシーの通る暗い通りで、タクシーの客に間違われないよう車を待つ僕。こんなときは煙草が欲しい。不審者として通報されたりしないだろうか。職質とかされたらどうだろう。お巡りさんに、この次第を話してやろう。ちょっとは笑いが取れるだろうか。せっかくだから話したいな。そして僕は、お巡りさんを待ち続けたのだった。誰かにこれを伝えなければいけなかったのだった。