『悪人正機』吉本隆明・糸井重里

悪人正機 (新潮文庫)
 『最後の親鸞』、『<信>の構造』を読んで、もう、こんなに俺の知りたいようなこと、読みたいようなこと書いてあるのかよってくらいの気になった吉本隆明。これだけの読書は久々というくらいであった。
 しかし、決して新しい発見であるということはなく、むしろそれは必然とも言えるかもしれない。というのも、それは俺の読書のはじまりというか、その基礎のところにあって、要するに俺のいろいろの本との出会いは父の書棚からであって、その父が吉本隆明の信者ともいえるような、吉本隆明が想定する数千人の読者の一人だったのだ。二段スライド式の本棚いっぱいに吉本本が詰まっていて、こいつはちょっと手が出せないぞって、そんな気がして、いつか親父が死んだら手を出そうかとか思っていたわけだけれど、その親父を経て吉本要素が幼いころの俺に流れ込んでいるってのは、十分に考えられるでしょう。そして俺が父の本棚から見つけた田村隆一高橋源一郎だって、父にとってみれば吉本をハブとして周囲に形成されたものに違いないのだ。
 そういうわけで、おこがましいこと承知でいえば、吉本隆明を読んだら、ひょっとしたら俺の一部分、父親に吹き込まれてきた部分を見つけてしまうのではないかとかいう、なんとも言えぬ怖さもある。それで、とりあえずブックオフ、105円で見つけたこの本に手を出してみた次第(ほかはもっと高かった)。そして、ああやっぱりと思った次第。

 それで結局、生きる価値はどこにあるんだ? それはちょっとね、本当にわかんないですね。わからないでしょう。何で価値があるかなんて、わかんないですよね。

 結論から言ったら、人間というのは、やっぱり二四時間遊んで暮らせてね、それで好きなことやって好きなとこ行って、というのが理想なんだと、僕は思うんだけど。

 自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。

遊んだり、お洒落をしたり、恋愛をしたりっていうことがなくなったら、人類の歴史のいいところはほとんどなくなっちゃうんですよ。

 今でも、慰安婦問題や教科書問題について、熱心すぎるほど取り組んでいる人たちがいますけど、そんなの冗談じゃないよって思いますね。
 何かこう、みんなが同じようにそのことに血道をあげて、一色に染まりきらないと収まりがつかないって人たちは、根本の人間の理解から違ってるんだよってことです。

 宗教には幅とか領域とか広さっていうことの他に、深さっていう概念が存在する。しかし、唯物論はもう、非常に平らな表面だっていうことですよね。

精神を浪費するっていう時には、やっぱりこの深さっていうのがあったほうが、浪費は楽しいですしね。

何でも、僕、信念が好きじゃないんですよね。

 このあたりはもう、全部、そうだよな、って思う。俺はもう働くのはいやでいやでしょうがないし、右にならえ、左にならえの運動やセクショナリズムに加わることは大嫌いだし、そもそも人間とつるむことが苦手だし、それでいて、そういうものに興味はあるけど、自身の確固たる信念みたいなものは信じていないという信念はあるし。それでもって、ともかく働くの嫌だし、じっさいひきもってニートしてたくらいだし。
 ……そりゃまあ言われるまでもなく、還相にあるような人間と、家から一歩も出てないような人間、同じようなことを言ってても中身が違うだろう。でも、そこのしょうもなさをも肯定するような、そういう人間の愚かさまで肯定するようなところがねえ嘘だろって、全くもう怠惰、自墮落、逃避と言われようとも、しかし俺はそう思う。そう思ってきた。それを全部、父や吉本に帰せることなどはできないし、するつもりもないけど、やっぱり俺はそう思うんだ、本当に。
 他にも気になるところ、「そうか?」と思うところなどあったが、いずれのヒントとしてまた何かの機会があれば。しかしなんだ、あとがきとかで触れているように、これは中高生くらいが読んだらぴったりだろうな、とか思ったり。田村隆一の『ぼくの人生案内』とかもそうだけど、こういうちょっと食えねえジジイの言うことは、ちょっと聞いといて損はねえと思うよ。