『日本の難点』読んだ
- 作者: 宮台真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 新書
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買ったのはちょっと前。ちょっと人を待つ間に本屋入って、なんか平積みされてて買った。買って、なんか待ち合わせていた相手、まあ、二十歳年上の女性に「こんなん買ったんです」って言ったら、なんか興味持ったので、先に読んだらと貸した。
で、帰ってきたんだけれども、どんなだった? と聞いたら、「いろいろためになった。けど、これだけの考えがあるのなら、自分で政治をやればいいのに」って言ってた。
『レイプレイ』問題について読んだ
少女を含む女性3人をレイプして妊娠や中絶をさせるという内容の日本製のパソコンゲームソフトに海外で批判が高まっている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090507-OYT1T01111.htm
日本での販売中止を求める抗議活動を国際人権団体が始めた。このゲームは2月に英国の国会で問題になり、ビデオ・書籍のネット販売大手「アマゾン」が扱いを中止した。しかし、児童ポルノなどの規制が緩い日本では今でも流通している。
それはそうと、その中で、昨今話題の『レイプレイ』というかエロゲーというか表現の自由というか規制というか、そこらあたりに関わる記述があった。P142〜143から引用します。
僕はいわゆる猥褻表現をめぐって「表現規制からゾーニング」と主張してきました。「この表現はいい、あの表現は良くない」というもはや自明性を欠いた話はやめ、明かな人権侵害がないのなら「この表現がいいと思う人とあの表現がいいと思う人が、棲み分けされればいい」という主張です。
僕の考えでは、何事につけ、多少目障りな程度のゾーニングが最も合理的です。というのは、最も抽象的な結論を言うと、完璧なゾーニングは「多様な者たちの共生」の原則に反するからです。それは共生というより相互隔離に過ぎません。ゾーンの内では包摂どころか徹底的な排除がなされます。
それで、あんまり完璧だとよくねえし、欧米とかは案外ほどほどだよって。で、どうだろうか、なんというか、腑に落ちるというか、俺はだいたいかしこい人の書いたものを読むと、なんでも腑に落ちた気になってしまって困るのだけれども、なんか俺は、このあたりが落としどころじゃねえかと、そんな気がする。
完璧なゾーニングなんて無茶だし、ゾーニングの存在自体から伝わるメッセージは消し去ることができない。それならゾーンの境界線に語らせることで、越境者に自分が何を越えたかを意識させるほうが良いのではないか。
『レイプレイ』事件について - 児童小銃
おそらく、たぶん、こちらで述べられていることとも重なりあうんじゃないかとか、思ったりするのだけれども。
なんというか、こちらのブックマークでも書いたけれども、どうも「表現の自由」とか、「二次元フィクションだから(実際の事件に結びつかない)」という理由じゃあ、なんつーか、戦えないというか、それはちょっと甘いんじゃねえのって、そういう気はするんだ。
エロ表現について考えてた
それはなんか、けっこう前から思ってる。そりゃあもちろん、エロは文化であって、その嗜好もさまざま。見たくない人間に見せつけたり、判断能力の劣る子供に関係しなければ、自由に行われるべきものではある。わいせつ物なんたら法とかち合わない限りは、表現の自由のあるものだ。だから、この施設が即売会を拒否できる正当な根拠を、法に求めうるのかどうかはわからんようなところもあるのかもしれん。
アブノーマル無題 - 関内関外日記(跡地)
けど、やっぱりその、下手に目をつけられてしまうよりも、アングラはアングラの、あんまりお上の目の届かないところでやった方がいいんじゃあないかと思ってしまう。「こういったアブノーマルも社会は受け入れるべきである! 表現の自由ばんざい!」「異議無ーし!」的な、政治的な主張があるんなら別だけれども、趣味や嗜好を楽しみたいだけなのならば、こっそりやってた方が趣味者/非趣味者ともに住み分けられて幸せというところもあるんじゃねえかって。
二年前の、「都施設でポルノ漫画即売会、過去6回開催」についてのメモ。なんというか、「表現を規制すべき」でも、「表現の自由」でもなく、なんというか、折り合うライン、住み分けられるあたり、そのあたりを、できれば、なんというか、マニア嗜好はマニア嗜好として、自然と、あんまり目につかないようにやっていこうというか、もちろん、それが圧力というか、抑圧、逆に不可視化になんのかもしんねーけど、うーん、難しいけれども、どっちか、じゃなくて、折り合い、じゃねえの、みてえな。落としどころ、みてえな。
ヘイトスピーチについて考えた
となると、なんというか、前にも書いたけど、表現と規制とか、なんというか、そのあたりについて、やっぱり考えなきゃいけないとなる。だったら、そういう趣味を警戒し、あるいは禁じればいいのか? そういう話でもない。それをやりだすと止まらん。そもそも、内心が先にあって、そこで止まる人間もおれば、なにかのきっかけに一気に行為に行く人間もいるだろうし、あるいは表現の領域で満ち足りて、犯罪行為そのものには完全に無縁の人もいるだろう。少なくとも、表現の段階で(その表現そのものに違法性がない限り)禁じたり、罰したりしてはいけないように思う。
が、このあたり正直よくわからん。ちょっと前にヘイトスピーチ規制は法で定められるべきだろうかどうかということを疑問に思ったりした(http://b.hatena.ne.jp/goldhead/で「ヘイトスピーチ」って検索してください)が、まあそれとは話の段階が違うのかもしれないが、この、表現と法というあたりは、なんともわからんところがある。
「神隠し殺人」に思う自分の想像力の限界 - 関内関外日記(跡地)
そうだ、ヘイトスピーチ問題とも絡むのかもしれない。こちらでもそのような話になっているので、あながち的外れではないのかもしれない。そうだ、ちょっと前に、ヘイトスピーチについても、なんかつらつらと考えたのだった。
それとあと、例のヘイトスピーチ動画、このあたりを見て、えーと、急にスピードアップするけれども、ヘイトスピーチは法規制化されてもいいんじゃないのか、という方に傾いた。これはもう、秤に小っちゃい分銅おいてちょっと傾いたくらいで、「運用法によっては怖い」とか「線引きが難しそう」とか、そういうところはある、あるけれども、法でこれについて定めておいていいんじゃねえの、と。
ヘイトスピーチは法によって規制されるべきかどうか問題について - 関内関外日記(跡地)
なぜっていうと、やっぱりこれ、言論である以前に暴力っつーか、先制攻撃というか、「とりあえず言い分を聞いて、反論しよう」という類のもんじゃないわけじゃん。そういう行為に対して、罰の値札がついてない、ご自由にって状況じゃあまずいだろう、と。
で、ヘイトスピーチに関しては、法制化したっていいんじゃねえのか、という方に傾いているのだった。で、法で表現が検閲? 弾圧? 規制? されてもいいの? ということに対しては、
もう罰せられる覚悟のあるやつは、それでも言うんだ、牢屋入ろうと、ヘイトなんだってやつは、その上でやる自由はある、……っていうのは暴論かいな。相手をぶん殴る言葉であれば、その分、傷害罪はついてこなきゃおかしいんじゃねえの、と。でも、それでいいのか? それを表現の自由と呼べはしないが、自由ではあるじゃねえのって。でも、なんかあやしい。そこんところがよくわからない。
と、よくわからないところがあって……。罰は後払いだから、先に自由があるってのは、たぶん暴論なんだろうけれども、なんというか、機先を制するほど法は万能じゃねえし。
教育らしきものについて考えた
なんだかわからんが、機先を制することができるのは、SF的頭蓋骨爆破装置や治安維持法でなく、その当人がいかなる人間であるかというところの、そこのところにかかっていて、それが当人の心掛け以外のところからどうにかしていこうって、そっちでいこうとなれば、教育、広い意味での教育、あるいは周りの人との関係性、尊敬できる人からの薫育とか、そういうあたりなんじゃねえのかとか、さっきの宮台さんの本を読んでいたら、まあそんな風なところなのかね、社会の役割というのは、みてえな。ああ、でも、なんというか、「よき人間になれ」と教え込むことによって、『レイプレイ』なんか唾棄すべき存在であると自ずから思えるようにするべきだ、みてえのは気持ち悪いわ。猟奇エロゲー好き(猟奇殺人を実行するのが趣味、でなく)に悪いわ。
そのあたり、たとえば俺は競馬好きなんだけれども、日本共産党はこんなこと言ってるわけ。
日本共産党はギャンブルもその産業も肯定するものではありません。今日の社会の矛盾の中で、ギャンブルにささやかな楽しみを求めている人々も少なくありませんが、健全なスポーツに発展させる政策を実行して、これらの人々がギャンブルをしなくてもすむような社会をめざします。
競輪、競馬などのギャンブルどう考える?
なんつーか、この屈辱感というか、怒りというか、お前ら、おい、お前ら、ちくしょう! ちくしょう! 言葉にならない! いや、大げさでなく、なんというか、「ギャンブルやってるやつはバカ」って言われた方が、ずっと人間扱いされているというか、ええい。
えーと、だから、なんというか、そういう方向で、『レイプレイ』的なものを無害化というか、無力化? していくとすれば、ポルノがポルノとして機能する(要するにオナニーに使う?)以外のところの、エロゲーはエロゲー、現実は現実、と、そこんところをわかるようにする。あるいは、見たくない人もいるから、その人には見せないように努力する、とか、お前が見たくない人もいるだろうが、まあちょっと我慢しようや、というか、そのあたりじゃねえのかと。たとえば子供や女性だとか、その他いろいろの人権侵害があるとすれば、そっちはそっちで、なんとかしていこうや、と。
で、たとえば、そっちはそっちでなんとかなった結果、それと関係あるんじゃねえのってポルノ、たとえば女性が酷く扱われるようなものが、なんか人気なくなっちゃったっていうのなら、それはそれでいいんじゃねえの。でも、もし、別に女性虐待ポルノはポルノとして大人気だとしても、実社会の、ポルノ外世界で、いろいろの人権がよろしくなってるんなら、まあ、それはそれでいいじゃねえかって、それはなんだ、むしのよすぎる話かな……? でも、俺は、そんなところでいいんじゃねえのって、思うのだけれども。
人権侵害について考えた
僕はいわゆる猥褻表現をめぐって「表現規制からゾーニング」と主張してきました。「この表現はいい、あの表現は良くない」というもはや自明性を欠いた話はやめ、明かな人権侵害がないのなら「この表現がいいと思う人とあの表現がいいと思う人が、棲み分けされればいい」という主張です。
でも、またここんところに戻るんだけれども。「明かな人権侵害がないのなら」。ここんところが引っかかる。
そりゃあもちろん、二次元キャラに人権はないわけであって、描かれた線と塗りに被害者はいないといえばいないのかもしらん。だが、それが、そういうものが、たとえば子供なら子供、女性なら女性への人権侵害だ、という指摘には、さあどうだろうか。
俺の、今のところの感覚としては、「それは広く見ればそうかもしれないが、しかし、そこまでそうではないのではないか」というか、そのあたり。ナンセンス! ってはねつける気にはなれないが、「いや、それはちょっと」みてえな。そこまで言い出したら、きりがないんじゃねえの、みたいな。あくまで、背景としてあるかもしらんが、みてえな、みたいなであって、なんつーか、ここんところは、ちょっとわからん。
ゲーム脳的なことについて考えた
あとは、たとえば、実際の犯罪への懸け橋になるんじゃねえの、的な議論もあるか。いつだったか、「ゲーム脳が本当にあったら」みたいなことを書いた。きちんとした脳科学やなにかの専門家が、科学的に確かな方法でゲーム脳状態を示す。そして、いろいろの学者の再現実験や何かからもゲームの人間に対する悪影響がはっきりする。アルコールで人が酩酊するくらいはっきりする。また、社会学やら統計学からも、社会に対してよろしくないことがはっきりする。森のゲーム脳を科学的、論理的に批判していた学者たちも認める。
想像してみよう、もしもゲーム脳が本当だったら - 関内関外日記(跡地)
……さあ、そのときどうする。どういう態度を取れるだろうか。森のゲーム脳を科学の面、論理の面から否定していたゲームファンはどういう道を選ぶだろう。科学や論理のことなどわかりもしないのに、その尻馬に乗ってゲーム害悪論を馬鹿にしていた……俺は何を言うだろう?
このへんだよな。たぶん、「エロゲー(や、その他いろいろの何か)は、犯罪の原因だ!」的な指摘に対して、「いや、科学的にはぜんぜん立証されていない! ニセ科学だ!」みたいな、そういうところの土俵で勝負するってことは、逆にそれが確定したときに、その表現や娯楽を捨てなきゃいけないってことだぜ。
だから、そこんところで、土俵にのらないで、「たとい科学的にどうだろうとも、表現の自由だ!」と言うべきかどうかというか、そのへんは気になるところ。その、実感としては、たとえば飲酒と運転ほどに、エロメディアと性犯罪は結びついてないんじゃないの? みたいなところはあるんだけれども。さあ、そのあたりは、もう土俵の線引きから対戦相手まで、俺にはとんとわからん。あるいは、「明確じゃないからこそ根深く深刻だ!」みてえな、そういう話もあるかもしらん。
あー、うーん。なんかちょっと科学とかの方に話が流れたな。なんかわからんが、倫理とか、そのあたりの話じゃなかったっけ? あれ、社会科学って、科学? まあ、俺が科学と言っても、社会科学と言っても、俺自身まったく足らんというか、そもそも土台となる知識がない。
だから、だいたいおおかた、こういう風にだらだら考えるのは無駄であって、なんかこう、かしこい人がそれぞれの意見をまとめて、そろったところでゲートインさせて、競馬新聞程度にまとめられた情報から、なにに賭けを決めたかったりして、たとえばそれが政治とか選挙とかであれば、なんとなく政治というのはよいものではないかと思うが、たとえば小沢一郎の辞任劇など見せられても、はっきりいって賭けようがない、という気がする。
やっぱりよくわからなかった
ああ、まあ、なんか、そんなところで、このあたりの話は難しいね、と。ヘイトスピーチには、法規制の値札をぶらさげておいた方がいい。ポルノについては、細かく、でも完璧すぎずにゾーニングしていこう、そのへんで。正直、猥褻表現についても、罰後払いということで、なんというか、もう、やりたいやつは罪になってもやる自由があるじゃん、というまったくもって、例のように破綻しているところの発想が頭をかすめもするが……。澁澤龍彦がサド裁判あたりの話で、「表現の自由でなく自由な表現」みてえなこと言ったか書いたかしたと思うけれども、なんつーか、究極のところで、表現っつーのは、法で規定されうる形而下の(刑事課の、と変換したしたけど、それもいいかも)権利とか、そういうもんじゃなくて、重きがおかれるのは「表現」そのものじゃねえか、というか、たとえそれが世の中の常識、良識、法、人倫、人権、何に反していても、ギロチン一回の罰の値札がぶら下がっていても、あえてそれを買うところに、何かあるんじゃねえか、究極のポルノや芸術があるんじゃねえかとか、まあいかにもありがちな、そんなエロ観、芸術観みてえなものもささやいて……、けど、「法律がなんだってんだ」ってところから、話がはじまるかどうかわからんし、やっぱりちょっとまだまだわからんことだらけです、はい。それでは。