ノーベル賞というのはたいへんな賞なので、むかわ町の防災無線で村人に告知されるくらいのものであって(ナカヤマフェスタが凱旋門賞勝ってたら流れたのだろうか?)、新聞も思わず号外を出しちゃったりして、お祭りさわぎとなるのであって、モンドコレクション金賞などとは比べものにならず、だいたいオリンピックでいえば金メダルくらいの話なのであって、ここで科学ファンなどが「ノーベル賞ばかりが注目されてしまうのは……」などと嘆いても仕方ないのであるって。
しかし、たぶんマスコミも、よほど専門の担当者でもなければ、昨日まで名前も実績もなにも知らなかった人間を一気に国家英雄として讃える上に、虚像もあきらかでないところに(まあ、「科学者」というステロタイプでも当てはめておけばいいのだが)、「実はこんな気さくな人なんですよ」、「庶民派なんですよ」までくっつけて、一気に叩き込まなければいけないのだからたいへんだ。
で、どうも、俺の実感なのだけれども、受賞速報→実績紹介、解説→本人の人柄、という流れが、ほとんどワンセットになって出てきていて、その高速化が行き過ぎてて、将来的には受賞速報の瞬間に「高校時代の面白エピソード」が百個くらい流れたりするんじゃないかと思えてくるが。
しかし、そういうのも危ないという気もするのだけれども、どうだろうか。たとえば、この記事の「私は受験地獄の支持者だ」という発言は、賛否は分かれようが、教育に対する考え方としてひとつのあり方だろうとは思う。ただ、これが「私は体罰の支持者だ」というと、ちょっと微妙一歩向こうなところで、マスコミも「聞かなかったことにしよう」とか、フォローの言葉をひねり出さなきゃいかんはず。
さらに進んで、人種、性別、いろいろのヘイトスピーチとか(ジェームズ・ワトソンみたいな?)、あるいは「暴支膺懲、尖閣諸島から支那人を駆逐しろ!」(昨日、秋葉原駅の個室トイレのドアにこういう落書きがあって、よく漢字書けるなって思った)とか、「天皇制を打倒すべきであると!」とか、政治的な極論みたいなものを言い出したらどうするのか、とか。あるいは、家族のほのぼのエピソードを紹介しようとしたら、DVで絶賛訴訟中だったらどうしようとか、悪魔崇拝者だったらどうしようかと。まあ、日本だったら悪魔崇拝しててもNHKで相撲の解説に出られるくらいだから問題ないが。いや、あれは悪魔そのものか。
ああ、言うまでもないけれども、科学者には変人が多いとかそういう話ではなくて、なんというか、人間いろいろだから、いろいろの中には「ノーベル賞受賞者=偉人=人格者=庶民派の一面=面白エピソード」とか、そんなん成り立たないケースもあんだろと。でも、いまのマスコミの光速の寄せでは、それを事前にチェックしてるような暇がないんじゃないの? と。
とはいえ、マスコミが放送コード的倫理で、極論を排した上の、きれいな報道ばかりするのがいいのかどうかというところもあるか。いろんなこと言うやつがいて、その言うことには批判されたりもあるというか、そういうものかもしらんし。むしろ、ノーベル賞くらいのインパクトある人間が、いいことだろうと、よからぬことだろうと、世の中のことを揺さぶるような物言いをしたらおもしろいか。そのときに、科学なら科学の実績はまた別、みたいなあたりになるのか、袋だたきになるのかとか、まあ、テレビや新聞の向こうの話なので、そんなふうに無責任に思ったりするのだけれども。