日本人はなぜマスクをするのか?

なぜ日本人はマスクをするのか?

 日本人はなぜマスクをするのか? 全米の疑問である。しかし、日本人であるわれわれは、その理由についてふかく考えたりはしない。それでいいのか? よくない。考えなくてはならない。そこで、私は調査を開始した。

私に対する聞き取り調査

 調査対象は私である。私に聞いた、「私はなぜマスクをするのか?」。すると、私はこう答えた「花粉症やインフルエンザ、もちろん病気予防上の効果を期待している。が、その実、それ以上、マスクをした自分というものが、マスクをしていない自分に比べて、街中で、電車の中で、なんともいえず非常に楽なのだ。その心地よさゆえに、私は花粉症の時期には花粉症でもないのにマスクをする」。「その楽である、心地よいというのは、具体的にどのようなものなのか?」。「ある種の仮面をかぶっているようなものだ。こちらの顔をさらしていない、一種の匿名性だ。ネットでいえば、多段串を刺しているような安心感。そう、匿名性、そして、私は私でない誰かであるかのような心持ち。一段引いたところから、私が私を操作するような感じでもある。そして、変装などとは違い、マスクは表情を隠してしまう。相手に悟らせない、この安心感というものもある」。

日本人とマスクに関する推論

 この結果から導き出されるのは、私は防疫上の効果よりも、心理的効果を望んでマスクをするということである。ここから、次のような推論が可能である。
1.私はマスクが心理的に好きだ。
2.私は日本人である。
3.日本人はマスクが心理的に好きだ。
 以上のような三段論法である。ここでいう三段とは、四十年前に範士から「三段の実力がある」と認可された類のものであることに留意されたい。ともかく、このような視点に立てば、いろいろな面で日本人のマスク好みが見えてくるのではないか。

日本人がマスクを好む傍証・1

 マスクというのは、日本人の表象文化において大きな役割を果たしてきた。この現代においても、その英雄像といえば、多くはマスクの存在である。国民的人気をえた月光仮面仮面ライダー美少女仮面ポワトリンなど、三つ例を挙げれば三つともマスク(仮面)をしているのである。このようなことは、偶然では成り立たぬ。
 日本の英雄は素顔のまま立ち上がらぬ。素顔のまま悪に立ち向かうニセの英雄は、決して真の英雄ではない。大神源太が英雄になれなかったのも、彼の映画において変身しなかったからというのは明白である。日本人はわれわれと同じ顔かたちした人間が、そのまま英雄になることを好まない。匿名性をそこに求める。マレビトであることをそこに求める。われわれに民衆の英雄はいなかったし、これからも現れない。
 そして、このような英雄像を抱いてきた日本人は、自らがマスクをすることにより、自らの変容を体感するのである。マスク一つによって、無力で平凡な自分が、急にある種の神秘的な力にアクセスできるような気持ちを得られるのである。

日本人がマスクを好む傍証・2

新型インフルエンザの感染拡大を受け、オリックス近藤一樹投手(25)が18日、先発予定の広島戦(19日・京セラ)で、マスクを着用しての登板を“志願”した。

http://www.daily.co.jp/baseball/2009/05/19/0001929025.shtml

マスクを着用すれば、当然のように呼吸がしづらくなるが「そっちの方がテンションが上がりますから。興奮していい」と気にしない。しかしそんな近藤のプランは『打者を惑わすことになる』という理由であっさり却下されてしまった。

 野球が日本の国技であることは論を待たない。私の私に対する事前調査でも圧倒的な結果が出ているからである。して、その野球選手である近藤選手の以上のような意思表明をどう考えることができるだろうか。それは、次のような事実を現している。
1.近藤選手はマスクがしたい
2.近藤選手は野球選手である
3.野球選手はマスクがしたい
 以上のような三段論法である。ここでいう三段とは、四十年前に範士から「三段の実力がある」と認可された類のものであることに留意されたい。この結果からともかく、日本の国技をひきうけるプロ野球選手が「マスクをしたい」という願望をそこに抱いていることが明らかになった。
 ただ、皆さんはお気づきだろうか。野球においてマスクを許された存在というものを。そう、キャッチャーである。神の象徴である審判を除き、ただ彼らこそは、マスクを許された存在。おお、彼らはその表情を決して余人には見せず、打者をつぶやきで惑わし、内角高めでのけぞらせたあと、外に落ちるボールで打者に踏み込ませない、そのような存在。野球形而上学において、マスクとは顔面や頭部の保護などという理由は、問題ではないのだ。
 そして、そのキャッチャーとは、日本人にとっていかなる存在であろうか。実は、キャッチャーこそが日本人の野球道における究極のカリスマである。ひとびとがいまなお野村克也に熱狂する理由はなにか? 大矢明彦が紙面を、ネット上をにぎわす理由はなにか? 言うまでもない、キャッチャーへの崇拝、特別視そのものである。神聖視といってもよい。
 再び言う、キャッチャーはマスクを許された存在である。その神聖視。そこに、日本人のマスクに対する圧倒的な、マグマのように冷めることのない強い思いを見ることができる。

これからの日本人のあり方を問う


 さて、以上のような理由から、日本人がマスク的存在である、K-1にマスクを被って出てきてミルコ・クロコップに一蹴されたドス・カラスJr.よりマスク的存在であるということが明らかになった。そして、今回のインフルエンザ禍は、今後日本人のマスクに対する距離を一気に縮める可能性がある。その点について検討せぬわけにはいかぬ。それは、日本人という存在そのものの根本を問い直し、新たなる変容を迎える、一大事だからである。
 では、何がどう変わるのか。言うまでもないが、今回のインフルエンザによって、各地でマスク争奪トーナメントが行われるほどのマスクブームが起きている。いや、インフルエンザはきっかけ、あるいは理由付け、言い訳にすぎぬ。ひとびとが、己の中にくすぶるマスク願望が、一気に火を噴いた。それがこの実態である。
 そして、ひとびとはマスクをしはじめる。仮面の裏側、ビハインドザマスクの存在となる。いきなり上がり33秒台の鬼脚が使えるようになるわけではない、いきなり仮面ライダーになれるわけではない。しかし、ライダーマンくらいにはなれるかもしれない。
 そう、われわれはマスクをすることにより、普段の、われわれの素顔とされるもの、しかし、その実、他人の顔色をうかがう、虚飾の、偽りの顔、それを逆に脱ぎ捨てることができる。マスクで隠すからこそ自由。「裸で何が悪い」とは、神に選ばれた人間のみが、その優れた資質と苦悩によってのみ放つことのできる言葉であり、常人には不可能。ただ、逆に、隠すからこそ自由。すべての常識、納得、予定調和のルールを破棄し、マスク・ド・われわれがすべて叩き壊す。素顔ゆえに隠されていた狂気、暴力、そして真の友愛がそこに現れるのか……?
 しかし、私はマスク化=自由になった日本人が、はたして日本人にとってよいものであるのかわからぬ。ひいては、世界人類のためになるものなのかはわからぬ。ひょっとしたら、素顔=いつわりの日本人、アルカイック・スマイルと物言わぬ日本人である方が平和であるかもしれぬ。ただ、時代はそれを許さない。インフルエンザ・ウイルスはそれを許さない。歴史の要請というものがあるのかどうかは知らん。知らんが、今、現実に、それが起こりつつある。われわれは、それを、素顔で受け止めるのか、マスク越しに受け止めるのか、われわれはわれわれの偽りの素顔をとるのか、真実の仮面をとるのか、そのことが、今問われているのだ。