『瀬戸際の勝負師』を読んで、大崎昭一を思い出す

瀬戸際の勝負師―騎手たちはそのときをどう生きたか

瀬戸際の勝負師―騎手たちはそのときをどう生きたか

 前年の春から大崎が騎乗してきたスガノオージが、天皇賞の前哨戦である毎日王冠に出走することになった。同じ日に、ダイゴウソウルが京都大賞典に出る。当時のダイゴウソウルの馬主、金田至弘氏が大崎に「京都記念を頼むぞ」原文ママと言い残して亡くなった直後だった。大崎はスガノオージ上原博之調教師にていねいな断りの電話を入れ、「天皇賞では空いていますから」とつけ加えた。ところが、スガノオージが代役の安田富男毎日王冠を勝つと、大崎は上原に電話してこう告げたという。「ぼくはいいですから、天皇賞には富男さんを……」
 大崎昭一とは、そんな男なのである。

 スガノオージ、ダイゴウソウル。俺の競馬史の一ページ目に記されている馬たち。スガノオージ毎日王冠、暗い府中。

 俺のお目当ては、カネツクロス。最初に好きになった馬。しかし、このメンバー、どうだろうか。スガノオージが下した馬たちの名前。ドージマムテキトロットサンダーサクラチトセオーマイシンザン。さらにはジェニュイン、ホクトベガ。スーパープレイ(俺はカネツクロスの馬券を買っていたが、一緒に行ったやつが「スーパァープレェェェ!」と叫んでいるのが楽しそうで、やけくそで俺も叫んだ)だって函館記念馬だし、エアチャリオットだって人気でクラシックに乗った馬。イナズマタカオーは重賞3勝、フェスティブキングは福島の王様だった。サイレントキラーだって、サンデーサイレンス産駒と紛らわしかったし、ホクセイバンドルは正直ごめん、思い出せない。
 ともかく、そんな時代のそんな馬たち。そして、ダイゴウソウルと大崎昭一。そこから思い出される、俺の競馬黎明期。サンデーサイレンスの旋風とは逆にあった、ただ、たしかにあった競馬の空気。
 そうだ、そのころ毎週購読していた週刊Gallop。騎手成績欄の見開き、俺が確認するのは大崎昭一の騎乗結果だった。1000勝に到達できるのかどうか。ダイシンボルガードカツトップエースも、読み物の上でしかしらない。大崎昭一の話も、別冊宝島などを読んで知っただけだ。でも、ともかく、「大崎は1000勝するか?」と気にするのが、俺の毎週の習慣だった。俺は、Gallopの騎手成績欄でいえば、左ページより右ページが気になる類の人間だ。

 大崎の妻、邦子は茨城県つくば市で割烹を経営している。学園都市の真ん中で、けっこう繁盛していることは私が春先に大崎をそこに訪ねて知っている。そのとき、大崎はこう語っていたものだった。
 「女房の商売に関係なく、ぼくが家計に金を入れるという条件で、騎手を続けられているんですよ」
 どうやら最近は、金をきちんと家に入れてないらしい。

 俺が、毎週やきもきしながら大崎の成績を追っているとき、大崎はどうしていたのか。こうしていたのか。ローカルからローカルへ。調教をつけ、調教師に報告、進言し、また別の開催へ……。新人騎手と同じように仕事をこなし、関西の調教師たちの信頼を得ながらも、やはり寄る年波には勝てず、騎乗数も減っていく。
 そもそも花形ともいえるジョッキーが、このような境遇で1000勝を目指さざるをえないことになった理由。調教師との確執、また、たびかさなる大怪我。それについても書かれている。しかし、やはり新潟事件、これを避けて通れない。これには、いろいろの言い分があり、うわさ話に尾ひれがつき、それでも大崎は語らず……。しかし、夫人がこのように述べたという。

 今いろいろしゃべると主人に叱られますけど、新潟のあれは仕組まれたんです。あの事件の少し前、若い人たちが調整ルームに外の人を入れて、新聞を広げて○×を付けていたんですって。それを主人が注意したそうなんです。その逆恨みなんですよ。主人のあのレースのとき、変だと思ったら新潟の場長さんに言えばいいのに、直接競馬会の本部に密告してるんですからね。最初から仕組んでたんですよ。

 もしも、これが真相であれば、その若い騎手たちに話が及ぶかも知れない。だからこそ、大崎は語らない。そういう見方もできるだろうか。
 さて、最後の方に大崎昭一の息子さんの話が出てきた。在学中に獣医の資格を取ったという息子。

 私が春先につくばで大崎と会ったとき、彼は頬をゆるめてこう語った。
 「大学を1番の成績で卒業したんですよ。でも、就職しないって言うんです。親父がなかなか調教師になりそうにないから、おれが先に調教師になるんだって」

 夫の恥辱を晴らすために、司法試験をとまで考えた邦子は、今は自分の心情を息子に託している。
 「息子も、自分が立派な調教師になれば、それがお父さんの仇を取ることになると考えているようです」

 この息子が、こないだ初勝利を挙げたばかりの、大竹正博調教師だ。

 俺はこのところ、競馬の紙媒体から遠ざかって久しい。この話を知ったのは、つい最近の話だ。水上学氏のブログを読んでいて、こんな記述があったのだ。

ダービーが不良馬場で行われた直近は69年だったが、その時に勝ったダイシンボルガードは、皐月賞ではロジユニヴァースと同じ14着。さらに、ダイシンに乗っていた大崎騎手は、ロジに携わっていた大竹調教師の父親。
大竹調教師はその手腕をかなり評価されている。不本意な形で競馬界を去った父の分まで頑張ってほしいものだ。

しつこいようですが | 白線の内がわ

 ここからちょっと検索して、こちらの記事を見つけ、さっそく古本を注文し、届き、読み、上のようなエピソードを知ったのだ。
 俺はまだ、この本を読み終えていない。残るは、小島貞博清水英次村本善之。なんともしびれる名前が並ぶじゃないか。俺が競馬をはじめたころに、たしかにあった、あの空気、あの騎手たち。俺は続きを読むのが、もったいないくらいに思えている。今、そんな渋味のある騎手って、あんまり思いつかないような気がするのだ。気のせいかも、しれないが。

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