西麻布夢散華〜国から二億はもらえない〜

 平成44年11月。
 ……ええ、午前一時を回ったころでしたか、なんですかね、カブキでしたっけ、それの若い役者連中と、ここらを根城にしてるね、まあ若い半ぐれみたいなのが、個室の方で一緒になってやり始めてたんだけど、やっぱりこう、テリトリー持ちとテリトリー持ちが重なるとね、摩擦があるもんですよ。そのうちにね、やっぱりお坊ちゃんなんだな、まあ、一方的になっていくみたいな様子が伝わってきましたね。でもね、酒の上のことだし、この界隈のこの商売だ、よほどのことがないと放っておきます。
 ……それで私は、カウンターの方で、お客さんがひとりいたんで、まあその相手でもしようかと思ったんだが、あれが不思議でね、商売柄いろんな客を見てきて、いろんな顔を見てきた。それこそ、普通は見られない、ヤクザとか、アウトローとか、芸能人、政治家、いろいろ見てきたが、あんな顔を見たことはなかったな。なんというのか、顔がないんだね、もちろん、目も鼻もついているが、なにかこう、顔を削いだマネキンみたいなね、今考えるとね、表情というものがなかったんだな、人間、たんに目鼻だのが顔じゃないんですよ。それが動いてこそ、なんだろう、顔になるんだよ。あのお客さんはね、それがなかったんだ、年齢も、なにも、わかったもんじゃなかったね、髪もスキンヘッドみたいにしててね。それが、黙りこくって、一人で飲んでんだ。
 ……個室の方の悪い雰囲気が、こっちにもかなり分かってきたころだったですかね、そろそろね、そういう場合の人を呼ぼうかとか考え始めたころだ。そのお客さんがね、不意にね「テキーラ、ボトル」って言うんだ。なんだか呆気にとられてね、なぜかボトルを手渡ししたんだ。そうしたら、もう片方の手に吸い殻の残った持って、個室の方に行くんですよ。もう私もそれからは見ているだけでしたね。
 ……バーンって足で個室のドアを開けるとね、テキーラを灰皿にそそいで、「うるせえぞお前ら、これ飲め!」みたいなこと言うわけだ。すごい声量でね、個室の中の連中も一瞬黙りこくったな。それで、あの男はそれから二言、三言、なんかアウトローの方に絡んで行くんですけどね、そんなの、今まで何回も見てきたはずの光景なんだが、端から聞いてるこっちの胃の中が逆流するくらいね、なんというか胸くそ悪いんだ。あんなん言われましたらね、ホトケ様だって一度で手が出ますよ、たぶん。
 ……それで、まあ喧嘩になる、当然。揉み合いになってこっちに出てきたんだ。そのときですかね、私の見間違いかもしれませんが、あの男がね、歌舞伎の役者たちにね、目配せしたみたいに見えたんです。「今のうちに逃げろ」みたいにね。それで、役者連中が、なにか勘づくようなそぶりもあったんだが、さっさといなくなりました。
 ……そこからですよ、まったく。なんでしょう、大立ち回りというのかな、変な話だが、あの男が一方的に殴られたり、蹴られたりしているだけなんだ。でも、それが見事なもんでね。いや、変な話だ。でも、やってる連中の方も、あれはそうさせられてるみたいな、そんな風に見えたんだな。ガンっていいパンチが入ったと思うと、あの男、空中で一回転くらいしましたよ、一回転。不思議だったな、なにか映画を観ているような気になった。あんなものは見たことがないな。ほんと、見事なものだった。
 ……そのうちにね、やってる方も満足したのかなんなのか、妙になっとくしたような、呆けたような顔になって、大人しく帰りましたね。男は下半身裸に剥かれて、土下座した姿勢のまま動かない。それで、私の方も、我に返って手当てしようかと思ったらね、和服の女の人が店に入ってきましてね。どこかで見たことがある顔だったかな、歳は四十くらいか、ともかく、まあ美人ですよ、いい女だ。その人が、なんでも承知しているというようなそぶりでね、悲しそうな顔をして、倒れた男に近寄っていってね。その時だな、あの男が笑ったように見えたんだ。「あ、人間だったんだ」って、なんかそのとき初めて思ったような気がしましたね。
 ……まあ、あの夜のことはこれで全部です。次の日に刑事さんが来て、エビだかカニだかが、またやったのかとかなんか聞きにきたんですが、まあよくわかりませんや、まったく。

※このエントリーはフィクションであり実在のあれやこれと関係ありません。