競馬と未来についての覚え書き

 このところ馬券についての、競馬についての見方が変わった。とくに大きなレースについてのことだ。俺は長らく、日本ダービーなら日本ダービーを「勝つ運命を持った馬」、「勝つことが決定づけられた馬はなにか?」というようなスタンスで考えてきた。どの馬が勝つかはわからないが、その馬はすでに決定されていて、それを当てるゲームだということだ。そして俺は、勝手に「日本ダービーを勝つ」に値する馬を考えてきたのだ。むろん、博打であって、オッズの方が馬券購入の決定にもたらす影響ははるかに大きいわけだけれども、根底のところにそれがあった。決定論、運命論、宿命論、なんといっていいかわからないが、あるべき未来を今ここでなんとか見ようとするのが予想というような気がしていたのだ。

地上とは思い出ならずや。
稲垣足穂

実際におこらなかったことも歴史のうちである。
寺山修司

 
 ……が、最近、どうもそのように思えなくなってきたのだ。未来はまったくの白紙だという気分だ。その原因はといえば、ひとつに、あまりにも自分の考える宿命が現実のものとならなかったことがある。宿命は大げさだが、マチカネフクキタルという馬が菊花賞を勝つとは思えないだとか、マサラッキがG1を勝つとは思えない、エイシンの馬が云々とか、誰それはダービージョッキーに値するのかとか、その程度の思い込みではある。
 もうひとつには、大雑把な血統分類から馬券を買うようになったこともある。強い馬や運命を背負った馬ではなく、たまたまそのときの馬場に適した血統や脚質、臨戦過程を持った馬が勝ちやすい中を走ってその通りになるかもしれない、そのていどの話である。そのような買い方、ある一頭の馬、一人の騎手に注目したりせず、その場その場の馬券の買い方といっていい。むろん、その方が回収率がささやかに、目に見えて上がったので続けているわけだが。
 まあ、なるようになった結果が現実というものでしかない、というところだ。
 自分で考えるのは、この二つだ。しかし、あるいはなにか自分の中で世界観、人生観が変わったのかもしれん。あるいは、馬券の買い方を変えたことが理由で、世界観、人生観が変わったのかもしれない。人生が馬券に影響するのか、馬券が人生に影響するのか。それはなんとも言えないが、なんとなく書き留めておこうとは思ったしだいである。