あの日見た花のことを先生には話すなよ

例えば「花が咲き乱れている」という文を読んで、どんなことを思うか聞いたとする。
「花がたくさんあるということは自然が豊かな場所かな」とか
「どんな花だろうか」「季節は春なのかな」とか
「たくさん花があったらきれいだろうな」とか
考えようと思えば考えることはたくさんある。
でも、子どもたちは「わからない」「何も感じない」って言うんだよね。(経験談

 この件について、ブックマークでこんなこと言った。

花を愛でる心持ちなんてのは、人生の経験と相まって作りあげられていくもんだろ。年寄りの趣味だ。

 言いたいことを言ったが、言い切れてないところと、よくわからないところもあって、ちょっとメモする。

 まず第一に、なんか俺の指摘はもとの文とずれたところの話してんのかな? って話。

おそらく、そのモノに対する意見とか見解が一切ないんだろうなって思った。
自分で意見を述べるということは面倒くさくて、
誰かが言う答えをただ右から左へ書き写しているだけ。
自分の理解の範囲外は模範解答がないと怖くて発言できない。

 べつに花がどうこうって話じゃなくて、「文」からの「意見」とか「見解」の発生とか、その伝達みてえなところが主眼なんじゃねえかという。でもよ、しかしだ、なんつーのか、べつにこれが、花じゃなくて、べつのもんだったとしてもよ、それについて意見や見解が自然に生まれるもんなのか? 生まれるべきものなのか? という。だいたいにして、「花が咲き乱れてる」って、なんかまあ、例にしたとしてもえらく陳腐だし、今、この俺がこれを出されても「で?」という感じ。咲き乱れるって、あんまりいい言葉じゃねえような気がするよ、手垢つきすぎっつーか、花を表す語としてはさ。
 まあ、それはともかく、なんかその、文章とかについて感性を刺激され? それぞれの個性的な? 模範解答的ではない? 意見や見解? が出てくるかどうかってのは、なんつーのか、そんなの求めるほうがおかしいだろうという。むしろ、意見がないのが意見ですっつーか、だいたい興味ねえもんについて「どう思うか」って言われても、「わからない」、「何も感じない」のが普通だろうっていう。
 それで、たとえば子供に対して「花」っつーのは、それほど訴求力のねえもんだよ。いくら自然に興味を持ってもらうとしてタラヨウの葉の裏をひっかいてみせても、DSのタッチペンで画面ひっかくほうが楽しいだろうよ。子供はさ、もっとキッチュで、プラスチックなんかでできていて、人工的でかっこいいもののほうが好きだろうが。ソフビのウルトラマン、ずしりと重い聖衣、色とりどりのガン消し、キン消し、持てば軽く、裏側にあまり触ってはいけない部分がむき出しになっているファミコンのカセット、カードダスの自販機を回す手応え、コロコロとボンボンの紙の匂い。
 ……なんて決め付けるのも同じ愚を犯す感はある。

原発事故の影響で楽しみなプールに入れない可哀想な子供たち、という報道。もしも俺が子供の一人だったら、大嫌いなプールが潰れて内心大喜びだったろう。むろん、プールを楽しみにする子供の方が大多数なのだろう。報道も、いちいちひねた金づちのガキを、取り上げる余裕もないだろう。less than a minute ago via TwitBird Favorite Retweet Reply

だからせめて俺は想像する。せめて、俺が。less than a minute ago via TwitBird Favorite Retweet Reply

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 だからさ、「花が咲き乱れてる」に対して、滔々と頭の中の庭園や広野、亜高山地帯の林縁に咲く早春の花について語るガキとかもいるだろうし、それでいいんだよ。「先生、さいきん街中で‘アナベル’ばっかり見るけど、ここのところピンク色のアナベルが入ってきて、それが流行りそうなんだけど、どう思う?」
 あるいは、「花が咲き乱れてる」に対してなんの意見もねえやつが、「京急快特が疾走する」に対しては四百字詰の原稿用紙で800枚くらいなんか書いたりするかもしれねえし。
 そして、さらに言いたいのは、べつになんに対してもなんとも思わないようなやつがいて、それのどこがいけねえんだってことだ。

 ただ、なんだろうか、たぶん被災した子供、あるいは大人の中にも、生まれつきおれみたいに魂の欠陥みたいなもんがあるようなやつ、やる気のないやつ、人生を生きる気のしないやつ、真面目になにかに向き合うとこうことがまったく理解できないやつ、放っておいたら学校行かなくなってひきこもり、ニートになるようなやつも混じってるだろうし、世間の善意の気運みたいなもんが、そういうやつらにさらなる重荷になったりしたらおもしろくねえと思うのだ。

べつにおれはライ麦畑の八重樫幸雄ではないのだが - 関内関外日記(跡地)

 だからむしろ、これについてはそうなんじゃねえの、とすら思う。

将来学校で「花を見たらきれいだと感じるのが一般的です」などと教えなきゃいけないのかもしれない。

 なんのためにといえば、とりあえず世間ではそう答えておけば子供の感受性だとか人間の魂について教科書的ななにかを信じ込んでいるやつをごまかせるからだ。そのごまかしは国語かなにかのテストという形で現れることもあるだろう。フォークト=カンプフテストかもしれないが。まあ、それはそれで結構なことだ。
 なんだろうね、冒頭の例で言えば、教師と児童の関係の中で出てきた話だとして、先生の言うことを素直に聞いたからこそ「わからない」「何も感じない」って、応えが帰ってきたわけで、ある意味、先生は信用されてんじゃん。でもそこで、「わからない」「何も感じない」という応えが「誤りである」というメッセージを出すと、ガキの方ははしごを外されたみたいな気持ちになる。それで「あ、自由な見解を聞かれているのではなく、模範解答的を求められているのか」と理解する。理解できなければ、はっきりいって困り果てるだろう。ダブルバインドとでもいうのだろうか。けど、このしょうもない世間はそういうもんで成り立っているかもしれねえし、その匂いを早いうちから狡猾に嗅ぎとれるようになるのも必要かもしんね。それとも、「花の魅力について子供らしい感受性を心のなかに発生させ、それをうまく先生に伝達できなかった自分が悪かった」と真剣に反省できるやつのほうが、まっとうな人生を歩めるのか? おれにはよくわからない。
 ただしかし、型にはめる、はめられる、これもまた必要というか、そうせざるをえないみたいなところはあるように思う。このあたりは相変わらずよくわかってねえけど、人間のこの思考するところの、これ、これ、この言葉というやつは、まさに型だろう。言葉が自由に、無限に、なんでも表せるような気もするが、一方で、それを言い表すことであらゆる可能性を殺している。あるものの名前を知ることで、自分にとって言いようのないなにかであってものが、とたんに死んだ標本になる。

 たとえば俺はこの前、オオスカシバという蛾の一種を生まれてはじめて見たが、それを見ているときのテンションというとけっこうなものだった。俺もそれなりに分別のある生物なので、これが未知の新種だとか、めったに見られないものだとか、そう信じていたわけではない。会社に行ってググったり、図鑑を開けば正体を知ることはできるだろうとわかっていた。わかっていたが、それでも蜂だか蝶だかエビだかわからないものが目の前にいるというのはすごい。頭いっぱいのはてなマーク。言葉にならない。
 ……言葉にならないと言葉にしてしまう矛盾みたいなところ。ただ、そんな感じの無我夢中みてえなところ、それはやはり多くの言葉や物事、人間の心情のマジョリティを知るたびに減っていくというか、感じにくくなっていくもんだろう。むしろ、言葉に頼るところもあるだろうし、それを四季折々の花にすら仮託するかもしれない。そう、花を愛でる心持ちなんてのは、人生の経験と相まって作りあげられていくもんだろ。年寄りの趣味だ。その花の名を知らず、知らぬことも知らず、それとともに主客未分であるかのようにありえるのは、子供時代の特権ともいえる。むろん、花に限った話ではない。人によっていろいろの花があって、30にもなると「昭和」「追憶」タグも増えていく。むろん、10歳のときに5歳のころを思い出すこともあったろう。地上とは思い出ならずや。
 だからなんだ、無理に感想や見解なんてものを応えさせるべきではない。もし聞くのであれば、「これに対して、世間が納得しそうな模範解答はどんなものだろうか?」と聞け。そして、その本当の心情については、勝手に話し始めるまでなにも聞くな。やがて彼の中で勝手に殺してでも流れでてくるものがあるだろう。もちろん、なくてもかまわない。俺はそう思う。
 そして最後に、俺から全世界の子供たちに10ポイントやろうと思う。好きに使ってくれていいし、使わなくてもいい。勝手に生きてくれ。

 

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 重要なことは、子どもが自然の世界と結びつく機会をもつこと、自然を愛することを学び、自然に包まれて居心地の良さを感じることだ。環境破壊について教えるのはそれからでよい。ジョン・ブラフは「愛のない知識が根をはることはない。しかし、初めに愛があれば、知識は必ずついてくる」と語る。私たちの抱える問題は、愛ある絆が花開く前に、知識や責任ばかり引き合いに出してしまうことにある。

 ジョン・ブラフがだれか知らないが、この本にはいいことが書いてあったような気がする。

 これを書きながらこの作品のタイトルのことを考えた。関連ありそうな気がしないでもない。最後にめんまを「見つけた」ことで、名前をつけてしまったのか?