いかにして僕は心配するのをやめたか

 世の中に心配や絶望の種は尽きないが、僕はもうすっかり心配するのも絶望するのもやめてしまったので、そのことについて書きたい。僕はといえば、だいたいずっと自分にもこの世にも失望していたし、希望をもった瞬間なんて物心ついてからひとときたりともなかったのだけれども、そんな僕でも心配をやめられたという話だ。
 簡潔にいえば、死ぬことにしたのだ。
 まあ、今からすぐ死ぬという話ではないのだが、かといって5年、10年というスパンでもないのだろう。ともかく、食えなくなったら死ぬということだ。そうだ、これまで僕はなんども刑務所に行くような末路について考え、述べてきたのだけれども、一方で自分で死ぬことについては「そんな度胸はない」と言ってきた。せいぜい不慮の事故で死にたいというくらいしか言い切ってこなかった。自分の希死願望というものはたしかなものである一方、死ぬ死ぬ詐欺とはいわないが、死ぬ死ぬ言っていつまでも死なないのはださいと思ってきたのだ。だから、お茶を濁してきたのだ。
 だけれども、もう僕は死ぬことに决定したのだから、ださかろうがなんだろうが、もうどうでもいいのだ。もうどうでもいいということはまったくの大安心であって、僕は生まれてはじめてかもしれない肯定のようなものに包まれていて、もうもう何も恐くないといっていい。
 ここのところの二ヶ月かそこら、まったく仕事が忙しかった。僕はリライトと校正ができるし、ひどい写真を出版レベルになんとか誤魔化す画像加工もできる。専門分野について外国のサイトを漁って情報を持ち帰ることもできるし、それなりに機能していた。ほかにできる人間がいない以上、機能せざるをえなかったし、僕はそうできたのだから、そうしたのだった。だからといって、それに値段がつくこともなければ、社会はそれについて僕が生きていくだけの金を出す気はないのだった。まったくもう会社は行き詰っていて、給料も出なくなってしまって、僕は数十万の単元未満株を現金にかえて、そして気づいたのだけれども、こんなもの抱えていたところで、まったく数カ月分の家賃や食費でしかないのだ。
 そう気づくと、たとえば自分の年金とかいうものが客観的に、万が一まったく完全にこのまま働き続けたところで月に4万円というし、そもそも老後の心配どころかそこまで生き続けると想定することがまったくの非合理にすぎないのだった。まったく、非合理どころか、傲慢や勘違いといっていいのだった。
 そう考えると、なにかもう、まったく長く苦しむことを想像するなんていうのはばかばかしいことにすぎないし、そんな想像をすることすら不合理だし、不毛だし、傲慢や勘違いにすぎないという話だった。
 生きるためにすき家を襲うのも、すき家で働くのも、まったく苦しみでしかないのだ。リターンもないのに苦しみを得るとか、得なければならないと考えるのは、まったくもって意味がわからないことだった。死んではいけないなどというのは、おろかな執着のカルトにすぎないのだし、まったくすばらしい自由を台無しにして、この世に絶望や不安をふりまくだけのことのように思えてならない。世の中に必要とされていないと客観的にジャッジメントされているのに、なにか自分に価値があるのだというふりをしつづける執着というのは、少なくとも自分にとって耐え難いものだった。

 植物は水がなければ枯れるだけの話だし、太古の人間だって森でどんぐりを見つけられなければ飢えて死んだだろう。まったくそれが自然の話なのだし、運も能力もない生命というのはそのように死んでいくものなのだ。なんの勘違いや傲慢が、自分は生き続けなければならないなどという妄想を抱かせるのだろうか。意味がわからない。もう、まったく能力を欠いているし、それをなにかで糊塗しようというやる気もない。なんについてもやる気なんてものは持ったことがなかった。
 生きていればいいことがあるかもしれないなどという話もあるが、僕はもう三十年以上生きてきて、自分の中に「いいこと」を感じる回路がないことを知ってしまったし、まったくの欠陥だとわかってしまった。こんなものは病気でもなければ障害でもないだろうし、補助されるだけの価値もない。単なる無能力なのだろうし、まったくなにかおかしいふりをしているだけの詐病にすぎない。要するに、そんなふりをして甘えたいだけなのだということもわかってしまっているし、そんなものは一顧だにする価値もない。
 そして、まったく金を使い果たして、食えなくなったら、そのまますぐに死のうというのは、すばらしい着想のようだし、生まれて初めて肯定的な気持ちになれたような気がする。これを思いついて、なにか頭の中で弾けたのはジョギングしているときだったが、まったくジョギングというのはすばらしい。
 そうだ、僕は自分がきちんと自裁できるのではないかということについて、わりあい自信があるのだし、それはジョギングのおかげかもしれない。僕は6月くらいに65kgあった体重が、今では51kgになったし、体脂肪率も11%くらいになっている。さらに体重はじわじわ減り続けているし、体脂肪率も下がっていくだろう。かといってガリガリになっているわけでもなく、筋トレなどもしてそこそここのまま死んでも恥ずかしくない身体になっている。栄養は足りているし、今までのどの年齢の自分と比べても、今が最強で最速だろう。かといって、まったく客観的には肉体労働に耐えられるようなこともない、まったく惨めなチビにすぎない。Amazonで買った金属バットがなければ、人を殺すことだってできないだろう。ただ、自分対自分のなかで、自分は身体をコントロールできたという、これはオムロンの体重計がそれなりの客観性をもって証明してくれていることなのだった。
 だから、他人との関わり合いを必要としないこと、自分で自分をコントロールすることについて、僕はもうそれなりにやれる自信があって、自裁することも可能でないかという、そういう気持ちになっている。それがもたらす安心感や開放感というものはまったくすばらしく、毎晩5km、7km、あるいは13km走るたびに「死ねばいい」「死ねばいい」というリズムが自分を明るく、肯定的にさせるし、心配や不安というものはまったくどこかに霧散してしまった。
 僕はもう、ずっと、幼稚園に行かざるをえなくなった瞬間からうんざりしていたし、まったく何もいいことはなかった。ただ、いつか終わりのない夏休み、宿題のない夏休み、あるいは、新学期のない春休みを、ひたすらに望んでいたのだった。人によってそれは定年とかいうものの先にあるのかもしれないが、まったく僕はそこまでやれることもないだろうし、そんなものを想像するの笑止千万なのだった。だからもう、確定的な、今の職を失ってしまったら、あとはもう、働くことや、働ける可能性なんてものは捨ててしまって、好きなものを買って、好きなことをして、その先の苦しみなどというものをあえて拾いにいくこともなく、まったくの自由の中にあって、まったく生まれてはじめての幸福にありつけるのだと思う。
 まったく僕は、詐病の構ってちゃんなのかもしれないし、死ねないおろかで惨めな存在なのかも知れないし、かといって、そんな結局のところなんていうものは、もう死ぬことに決めた自分からすればどうでもいいことであって、どう思われようがどうでもいいことばかりであって、どう考えようがどうでもよくて、まったく自由の気持ちになっている。まったく死者の自由というものはすばらしいし、生まれて初めて肯定的な気分になっている。生きなくてはならないなんていう強迫観念からも今は自由だし、自由のまま死ねたらいいと思う。痛い思いも、誰かの指図も、くさい臭いも、得たくないのだから、得なければいいのだし、僕は僕をコントロールできるのではないかと思っている。先の不安とも無縁になって、まったくもう三日でも一日でもいいから先の心配なく休める日があればいいと思うし、そのことだけが自分を肯定的にさせる。
 結果的に死ねるとか死ねないとか、もうそのことすらどうでもよくなって、死ぬようにして死ぬのだと决定した僕は、まったくもう心配しないのだし、こんなことを書き散らかしたところで無敵の感じがして、すばらしく自由なのだった。