「ロゼは故事」ってなんの故事やら


 「ロゼは故事」と書いた車が走っていた。どんな故事があるのか気になったが、あっという間に走り去ってしまった。ベイスターズ通りDeNaの新しい垂れ幕を設置しているのを見た。
 要するにこのまま薬で不安定な安定状態をつけて折り合いをつけていくしかないのだし、根本の治療はできない。問題は経済や仕事、金の話になる。おれは金も金の話も好きだが、自分が金を稼ごうとかいう話には恐怖しかおぼえない。嫌悪感や罪悪感とかの高踏的なものではないよ。自分にはそんなものをもらえる資格なぞない、提供できる労働力がない、生きる価値がない、そういうものに直結した思いだよ。
 七億年前から言われている新しい働き方、新しいライフスタイル、新しい村、そんなものにもこれっぽっちも期待なんかしていないさ。いくら俺が石川三四郎権藤成卿読んだところで、社稷を思う心が湧いてくるわけでもないし、ただなんとなく、今現在、新しい、新しいと言われていることが、50年、100年前から言われてるんだって、そんなことを眺めていたいって気にもなる。
 おれがもうちょっと楽天家だったら、クロポトキンの言ってた相互扶助がさらに詳しく解明されてきているようだし、彼の考えた理想社会が今ならば成立するんじゃないのか? とか、今の技術があれば『たけしの挑戦状』のほんとうにやりたかったことができるんじゃないのか? とか考えたりするかもしれないけれどね。
 社稷より社食、あこがれの福利厚生、心の病で休職! 休職というのは想像がつかない。おれは大企業というか、中企業くらいでもしらない。どうなっているのかわからない。企業年金、ボーナス、福利厚生、労組、過労死、よくわからない。
 と、よくよく考えてみたら、おれはとっくの昔に一度降りてしまった人間だった。正真正銘、NからはじまりダブルのEとTとのすべての要素を兼ね備えた、完全無欠のニートだった。それがなんの因果か働いているのだから、なにかこう、一度死んだ身のようなところがあって、一度捨てているのだし、どうでもいいというところもある。今さら艦隊が新型ネウロイの襲撃を受けているのに、ウィッチの救援はない。いや、ウィッチたちはもっとたいせつなものを守らなければいけないのだし。思わずほんとうにBlu-rayボックスというのを買ってしまったが、特典のコンサートはとてもおもしろかった。
 じゃあ、リビングデッドの君に何ができるだろうか。なにか将来があるとすれば、人里離れて、小屋に住んだりする。川沿いでもいい。そこで刀でも研いで、ふらりと街に降りてきて袖ふれあうも一殺多生とかいってみたいもんだけれども、まあそんな気長もない。けど、いずれは地方などというところには人間がいなくなるのだろうし、そのときここ寿地区はもっと人間で詰まっているかもしれない。横浜高校が重要なのではなく、ハンデが重要なのかも知れない。いくら変なレースをしたって、オルフェーヴルに興味はわかない
のだけれど。
 懐疑者のように行動せず、信者のように行動せず。いや、なにか信じられるものがあればいいって思うことはあるだろう。今日も関内駅前でお経を唱えてる二人組の青年がいたな。どっちもスーツ着てたっけ。って、あれはなにか、新入社員の人格改造研修かなにかかもしれない。くわばらくわばらって、ベイスターズの桑原ってどんなんだっけ。ちょっとジンジャーエール買ってくるわ。それじゃ。