高橋和巳『日本の悪霊』を読む

 高橋源一郎だったと思うが、ある作品を本当に批評するということは、その作品と同量の批評を書き、さらに同量の作品をあらたに書かなければいけない、みたいなことを言ってたような気がする。そういう根拠をもとに書かれたわけでもあるまいが、クソ長いドストエフスキーの『悪霊』を読んだあとに、鈴木邦男のサイトで『日本の悪霊』を知り(鈴木邦男をぶっとばせ! 『夜と霧』と現代日本について語りました)、ちょっと読んでみたくなったのだった。

特攻隊員として、国家のために死を決意しながら、生き残った刑事。戦後の激動期に、革命の尖兵として火焔瓶闘争から殺人までも犯してきた被告。執拗に被告の過去を探る刊事の胸の底に、いつしか奇妙な共感が…ミステリアスな展開を通して、罪と罰の根源を問う代表的大作。

 して、『日本の悪霊』はどうだったか。打線は組めなかった。スタヴローギンにあたるのはだれだろう? ピョートルにあたるのはだれだろう? そんなふうにも読めるだろう。ちなみに、「被告」は殺人で捕まったわけではなく、とつぜん工場を訪れて三千円貸してくれといって、三千円持っていったところを通報されて捕まったのである。その「被告」の拘置所内での動きと、刑事の外の動き、というのが二本立てで動いていく。
 ただ、『日本の悪霊』はもっと曖昧模糊なもの、巨大で完成されてしまったもの、それを大きく扱っているようなもののように思えた。『悪霊』には変わっていく時代の雰囲気と問いのようなものがあったが、『日本の悪霊』はドンづまったもの、そうやってかどうか完成してしまっているもの、権力というもののありようを描いているんじゃないかと。そして、そのなにかしら巨大で曖昧模糊なものを相手にするがゆえに、いかんせんこれがなんともいえぬ曖昧な気持のままで終わってしまう。
 終わってしまう。いや、正直、途中までジェイムズ・エルロイを読んでいるような気にさえなった。ハードボイルド、あるいはノワールノワールとまではいかぬが。まあしかし、ミステリじゃないんだ。仕方ない。ただ、匂わすだけなのだ、権力のなにかを。一端を。それは、元特攻隊員であり、警察官である個人と、革命集団の一細胞であった個人それぞれに対しても。
 もしも、なにかスパっと謎解きがあったのならば、それはそれで見事に終わらせる必要があったろうし、もっとスパっとしてて面白くなきゃいけない。冗長ではいけない。もし、そうであったならば、もっとこれはエキサイティングなものになっただろうし、そうだったらよかったのにな、というようなところはある。正直なところ、ある。あれ、これってもっとすげえいい当たりになったんじゃねえか、という気もする。思想と対話方向に振るにしても、ミステリに振るにしても。正直、踏み込みに物足りなさがあった。まあ、正直、この作者の本を読むのは初めてだし、書かれた時代やらいろいろあろうし、俺の知力や思考力という大問題もある。
 最後に、本書で紹介されていた中国の先秦時代のエピソードを引用しておく。王は、国の絶対者たるべく法を少しでも犯せば厳罰に処して厳しくやってるが、それでも国民の服従が完全じゃない。どうしたらいいんだと遊説家に問う。これにはこういう答えが帰ってきたという。

……遊説家はこう答えた。王は法によって裁いておられる。それではどんな厳法であっても、どんなに細則をもうけても駄目です。なぜなら、法が存在すれば、何を犯せばどう罰せられるかが解るのであるから、それさえ犯さねばなにも心配することはなく、なにも積極的に王に媚を売り、忠誠を誓う必要はない。それではだめです。こうするのです。手当たり次第に人民をとらえ、良い者も悪い者も、めったらやたらに投獄し、しかも罰に軽重の法則なく、なぜ罰せられるのかも分からぬように殺し、なぜ許されるのかも分からず釈放するのです。きっと人民は恐怖し、王の一挙手一投足に、おびえ、王は絶対の存在になるでしょう。

 なにかの心理実験のような話でもある。そしてまた、コインの裏表のように取れるようななにかが潜んでいるようにも思える。あるいは、コインをへし折って、無法の世界、無政府の世界がありえたならば、これはどうなるのだろう。おれにはどうもよくわからないが、なにかありそうな気がする。気がするだけだ。

関連☆彡