年齢相応の、いたって普通の日傘だな、と思った。浜辺の古いベンチに座る一人の女。かたわらに大きなトランクケース、約束通りの時刻。
おれはひさびさに海を見た。波の音を聞いた。空は薄曇りだったけれど、いつかの夏の日のことを少し思い出した。おれは女と反対側の端に腰をおろした。うらさみしい九月の海水浴場、初めて告白した女との再会。ただ、あまりにもおもしろくもない用事だった。
「どうも。……さん。ええと、一応、名刺を渡しておいた方がいいかな」
どんな口調で話せばいいのかさっぱりわからなかった。父親の墓参りに行ったっきり、二度と会うことのなかった少女。人生には都合のいい再会なんてものはない。言いたくて言えなかったことはずっと言えないままだった。そのかわり、ろくでもない偶然だけはある。おれは借金取りの下っ端として彼女を東京に連れて行く。これでは、都合よく山崎まさよしの歌が流れてきたりはしない。
じっと海を見つめていた女はこちらを一瞥して名刺を受け取った。表情はなかったが、少女のころの面影は充分にあった。あったから店長のオーケーが出たのだ。
「わかっているとは思うけれども、君の旦那さんは逃げてしまった。家の方も処分したけれども、まだ返さなければいけないお金が残っている。……なに、少しの間働いてもらえば、すぐに終わるし、また家族で暮らせる……」
そう言い終えるか終えないかの刹那、脇腹にチクっとした感触があった。鉢にでも刺されたかと思った。が、次の瞬間、大きなハンマーで殴られたみたいな痛みが腹全体に響いた。目をやると、脇腹に文化包丁がぶっ刺さっていた。プラスチックの柄は女がしっかりと握っていたのが見えて、派手に血が吹き出してたりはしていなかった。
おれは女から逃げるようにベンチから立ち上がろうとした。だけど、まったく力が入らない。ずるりと滑り落ちて砂浜に尻餅をついた。女の動きに迷いはなかった。即座に馬乗りになると、おれの腹のどまんなかに包丁を振り下ろした。さっきと同じような痛みが走った。日の下には新しきものあらざるなり、か。
「……、おい、これは、ああ、なんなんだ……」
女は片手に日傘、片手にトランクケースを持って立っていた。まったく落ち着いたようすだった。両の目でじっとおれを見据えて言った。
「……パニッシュメント」
……パニッシュメント? バニッシュメントじゃなくて? あれ……、どういう意味なんだっけ。腹でドカンドカンと響く痛みから気を逸らそうと、そんなことを考えた。でも、全身にはわけのわからない警戒音が鳴り響いてて、手は必死に砂をまさぐっていた。薄曇りの日の九月の砂は温かくも冷たくもない……。
「行くわよ」
女がだれかに呼びかけた。次の瞬間……なのかどうか、もうおれにはわからなかったけれど、鼻先に吐息を感じた。いつの間にか閉じていた目を開き、必死で焦点を合わせる。そいつは小さな犬だった。犬はおれにすぐ興味をなくしたのか、頭の上をぴょんと飛び越して行った。妙なことに、犬には羽根が生えていた。……いや、違う、そういうハーネスだ。凡庸なグッズだ。おれの土手っ腹にぶっ刺さっている文化包丁くらいどうってことのない……普通の……。
「おかーさん、このおじちゃん大丈夫なの?」
こんどは小さな女の子の声がした。いつの間にかまた閉じていた目を開いて、必死で焦点を合わせた。小さな女の子がおれの顔をのぞき込んでいる。おまえ……なのか? ……いや、違う……。違わない……。ああ、そうだったのか、そういうことだったのか。女の子の目は両目とも黄金色に輝いていたのだ。まがい物なんかじゃあない、まったくの黄金色だった。
……やがて波の音しかしなくなった。おれは一人、うらさみしい九月の海水浴場で大の字で寝っ転がっていた。たまに喉の奥からせり上がってくる血を飲む。砂は温かくもなく冷たくもなかった。腹にぶっ刺さった文化包丁は美しいまでに垂直で、あくまでリアルだった。醜い日時計みたいだと思った。力を込めてもう一度目を開くと、直上に太陽が浮かんできた。さっき見た少女の瞳だった。おれは痛みもなにも忘れて、その黄金色の光に包まれていた。……おい、ここだ、ここに見つけたぞ、あったんだよ、おれが間違っていた……、ここにあったんだ、さあ、一緒に行こうぜ……おれの荷物……駅のロッカーにある……、ダーク・フレイム・マスターにできないことなんて……ない、さあ不可視……向こうへ……。