(……あれ? もうちょっとブックマークされてたような気がするんだけど、この記事。日記形式を変えたりしたから消えたのかな)
このとき以来、祖母とは会っていなかった。とくに理由はない。べつに遠くに住んでいるわけでもない。祖母は横浜で父と母と同居するようになったので、距離は非常に近くなったくらいだ。ただ、おれは出不精で引きこもっていたいタイプだし、祖母もまた同様の人間だ。正直なところ、もう生きて会うことはないだろうと思っていた。おれというのはそういう人間だし、思うにこの気質を家族の中から探すと、この祖母ではないかという気もする。
その祖母がちょっと転んで手が痛いとかいう。それで、母が病院に連れて行くことになった。ついでに、ちょっとおれの会社に寄るので顔を見せないかということになった。そういうわけでおれは、車の助手席に乗った祖母と久々の対面を果たした。祖母は年相応に軽く骨折していた。
祖母は、4年前よりやや老いていた。耳は遠くなってほぼ聞こえないらしい。ただ、補聴器は頑なに拒んでいるという。家の近所をほんの少し散歩することはあるが、デイケアだのなんだのも頑なに拒むという。そりゃそうだろうと思う。静寂の中、部屋で本を読むのを好むはずだ。
そういうわけで、話は一方的だった。滑舌もしっかりしているし、声も普通だ。聞く耳持たぬだけだ。おれを見て「大人になった」という。そりゃそうだ。そして、「わたしの鎌倉での一番の思い出は、おじいちゃまと小さなあなたを車に乗せて、毎日のように江の島の海岸に通ったことなの」という。おれは「うん、うん」と言って聞いていた。
あまり長い間駐めて置くわけにもいかないし、一方通行の会話も続かない。おれは祖母と握手した。折れてない方の手とだ。手はあたたかく、意外と力強かった。死んだ母方の祖母とも、会社を去る人間ともおれは握手した。おれは去っていく人間と握手することにしている。また会うこともあるけれど。
母が運転席から家かどこかに連絡している間、今度は妙な間ができた。寒いのでオフィスに戻ろうかと思ったが、なんとなくそれもためらわれ、車の前をうろうろしていた。ようやく車が発車するというとき、おれは祖母に手を振り、祖母はおれに手を振った。
あとで母から知らされたところによると、家でもおじいちゃまとおれを車に乗せて江の島に行ったことはよく話すことだという。おじいちゃま……祖父はパーキンソン病になり、箱入り娘だった祖母は60歳を過ぎて初めて運転免許を取った。祖父を病院に連れて行ったり、リハビリ歩行のために江の島の海岸へ連れて行ったりするためだ。それにおれがついていったのだろう。
おれにはたしかに、太陽の照る江の島の海岸、ゆっくりゆっくり、見えなくなるまで歩いて行く、長身の祖父の姿を思い出すことができる。そして、ルノワールだったかシャノワールだったか、喫茶店に寄ったようにも思う。ケンタッキーだったこともあるだろう。
ただ、毎日のようにというのは確かなことかどうかわからない。正直、そんなにたくさんの記憶がない。毎日となると、おそらくは幼稚園より前のことになるだろう。おれにとってはあの祖父の姿が一枚焼きついているだけだ。
けれども、祖母にとっては違うのかもしれない。今思うに、彼女にとっては自分が夫と孫を自動車を運転して、江の島までドライブするというのは、大冒険だったのだろう。
元来、あまり外に出るのも、親戚づきあいも、友人づきあいも好きなタイプではなかった。それは、育ってきた環境もあるだろうし、伯父が障害者であったせいもあるだろう。もちろん、生まれつきの性格ってやつもある。少しは親しいの葬式に行って、受付で香典袋だけ出して、「それじゃあこれで」と帰ろうとしたなんて話もあるくらいだ。
そんな祖母が、車で10分、20分のところとはいえ、自分で車を運転して出かける。これは大きい。おれは、ひとりのひきこもりだった人間、今なお外に出ることを非常に億劫に思う人間としてそう思う。なんか、わかるような気がする。見当違いでもいいが、まあそんな風に想像するのだ。
おれにとっての江の島は、もちろん昔の灯台。砂浜はゆるく孤を描き、遥か向こうに祖父がステッキ片手にゆっくりゆっくり歩いて行く。やがて見えなくなるくらいまで遠くに行く。その間、祖母はおれの手を握っていたのだろうか。おれは覚えていない。
関連______________________
……ここに訂正するが、「化学博士であった祖父が勤めていたのは東レだった」というのは誤りで、三菱レイヨンが正しい。おれの部屋にある祖父の転勤記念の鹿の頭の裏の寄せ書きに、昨年末の引っ越しのとき気づいた。Wikipediaを見るに広島県大竹市に研究所があるという点で、父の出生地とも合致する。しかし、母方の祖母はチッソなのに、どうしてここまで算数のできない孫が生まれた不思議でならない。
……母方の祖母とは、正月に顔を合わせる「ばあば」であった。今年の正月に遺品などを見ていて、けっこうな量の蔵書から、俳句を趣味としていたことを知った。句会だかなんだかにも参加していたようだ。旅行好きで、出生地の満洲まで行けたかどうか知らないが、中国旅行のアルバムや、日本各地への旅行アルバムなども出てきた。一緒に住んでいなかったというせいもあろうが、そういう行動力をおれは持ち合わせていない。