……3D酔い的な意味で。
今季のアニメで初めて録画を見たのが本作だった。少し前に話題になっていたからだった。それで見終えて上のようになった。原作漫画は知らない。
なんでそんな風に思ったんだろうかと思った。いや、「思い」ではなく身体的な反応だった。どういう風に賛否両論なのか罵倒の嵐なのか、ネタバレを見たら嫌だと思ったから見出しくらいしか目にしていないからわからないし、こういう意味で話題になっているのかどうかもわからないのだけれども、おれにとってはそうだった。
少し考えるに、人物の動きがロトスコープとかいうものの小刻みに動くあたりじゃないかと推測したのだった。普通のアニメはそんなに人がプルプルしていないのだった。なのに、『惡の華』はリアルタッチとはいえ、のっぺりとした背景にそういうった人間のプルプルした(←うまく表現できないが)リアルな動きが重なって、3D酔いみたいになったんじゃないかと思った。
しかし、しかしだよ、実写映像を見て3D酔いになるのかといえば、ならないのだ。これはどういうことだろうかと考えたのだった。
考えるに、実写映像は自分が常にこの目で見ているものの延長線だとか擬きなのだろう。そして、詳しいことはよくわからないが、われわれの視覚や脳というものは、すさまじい情報量を都合編集、カットあるいは補完しているというので(いわゆる錯視というやつはそのせいで起こるのでしょう?)、自分がこの目で日常を送るかのように、実写映像に対して、脳が都合のいい、解釈のしやすい取捨選択をしてくれているのではないかと、そんなふうに想像するのだった。
というわけで、ロトスコープの人物の動きに対して、脳が「これはアニメであり、そんなにプルプルしないものである」というような判断をしつつ、人物が実写のように動くところに、自分の3D酔いのような気持ち悪さが出てきたのかと思った。ただ、アニメというか、CGの背景に合成された実写人物を見ていて同じように気持ち悪くなるかどうかとか、よくわからないところはあるのだった。あと、『坂道のアポロン』の演奏シーンとか……は、激しく動いている普通でないところだから普通でないと判断するのかな。『スキャナー・ダークリー』はどうだったかな。
しかし、情報というものはひどく編集され、翻訳されるものだと、上の仮説を考えながら思ったものだった。たとえば、テープ起こしというものをしたことがある人ならばわかるだろうけれども、あるていど原稿を元に行われる講演だろうと、一字一句正確に書き起こすと、やはり文章として意味が通らない。これが、複数人の対談だの会議だのになると、どうしてこれで意思の疎通ができるのか不思議になるくらいなのだった。対面しての話し言葉と文字によるテキストの差異は想像以上なのだった。情報はメディアを変えるときに必ずロスト・イン・トランスレーションが起こるし、逆に加わってしまうなにかもあるのだった。おれはそれら情報の振る舞いを好もしく思うのだった。
話を『惡の華』にもどせば、おれは身体的に3D酔い的に気持ち悪くなったが、内容はといえば、一話しか見ていないけれども、一貫した不穏さをわりと好もしく思ったのだった。これも見ていればいずれ慣れてくるものかとも思うのだった。とはいえ、四月も半ばになってあいかわらず頭がぼんやりしていて、Blu-rayレコーダーに溜まっていくばかりのアニメの取捨選択などもふくめて、やはりなにもやる気がしないのだった。おしまい。
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……上の画像は『アニメック』13号より。人はどのように歩くか、それを演技させるか。おっぱいがどう揺れるかというのも、アニメでは演技といえるのかもしれない。そういう意味でいえば、股間に演技させる監督というものもこの世には存在するわけであって、すばらしい『ストライクウィッチーズ』の三期はあるのかどうか、思わせぶりなラジオでの会話が気になるのだった。