小説を読めないおれと『ディファレンス・エンジン』

ディファレンス・エンジン〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ディファレンス・エンジン〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)

ディファレンス・エンジン〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

ディファレンス・エンジン〈下〉 (ハヤカワ文庫SF)

 実をいうと、なんていう前置きはいらない、おれは小説が読めない。日本語が読めないわけではないので、目を通して、最後のページまで通しきることはできる。できるけれども、その実のところで小説を読めているかどうかというと、はなはだ怪しい。ある種の小説に関しては、まったく読めていないといってしまっていい。
 ギブスン&スターリングの『ディファレンス・エンジン』。今さらながらに読む。ジェイムズ・グリックの『インフォメーション 情報技術の人類史』の中の、バベッジとレディ・エイダについての章、そこに描かれる階差機関にうっとりしたからだ。読むなら今しかないという気になった。
インフォメーション―情報技術の人類史

インフォメーション―情報技術の人類史

 読み始める。まず「第一の反復」と章題にある。おれは途端、「これはアカンやつや」と思う。半分くらい思う。小説全体がアナログ時計の精巧な歯車のように配置されていて、その構造を読まなければ読んだことにならないようなやつじゃなかろうか。おおきな罠が潜んでいて、おれはそれに気づかずに読み終わったような気がするんじゃなかろうか。そんな風に思ってしまう。おれはあの日のラヴレンチーのように、脳内に「警戒! 警戒!」のメモを書き散らかす。
 が、おれはそういう小説を読めないから、警戒のしようがない。文学理論というものがあるとしても、そういうものを知らないので手がかりになる杖もない。たとえばカルヴィーノの『宿命の交わる城』などわけがわからない。少なくともおれとは交われない。『レ・コスミコミケ』を『波打際のむろみさん』みたいに楽しむのが限界だ。
 とはいえ、『ディファレンス・エンジン』がいかなる書き手によるものかということについては、さすがになんとなく当たりはつく。当たりをつけておいたところで、あとは精緻に描かれたスチーム・パンク世界に身を投じればいい。そこがロンドンだろうとロンドンでなかろうと、ゼファー魂ものすごいスピードで走り去っていく。
 走り去っていって、さておれはこの小説の二階に行けたのだろうかというと、解説やらなんやらを読んでなにかありそうだと思うくらいのところで終わる。
 算数だか数学だかの図形の問題で、補助線というやつがあった。おれは補助線を見つけられない人間だ。そこがおれの知の限界だな、と思うところがある。そして、サイエンス・フィクションというやつは『ロッキー・ホラー・ショー』のダブル・フィーチャーでないかぎり(ともいえないが)、サイエンスを取り扱う。そいつが自己言及的な態度を取り始めると、おれにはお手上げだ。おれは算数ができないからだ。
 さらに、機械の言葉が関わると、おれはいっそうわからない。プログラミングというものができる人間というのは、おれにとってははるか仰ぎ見るような存在であって、人間の言葉を何カ国語話せるよりもたいしたものだと思う。プログラマーには、いったい世界がどのように見えているのか想像もつかない。彼らには、算数がわかって、そのうえ機械の言葉もわかるのだ。まったく。
 算数ができない上に、小説も読めない。算数はもういいとして、小説、あるいは広く文学について、参考書でも読めばいいじゃないか、という気もする。きっとそんな本もあるだろう。
 だが、おれにはそういう気がおこらない。簡単にいってしまえば「なんか癪だから」。言葉というものについて、だれかに助けてもらいたくないという驕りがあるからだ。むろん、おれが言葉を発明したわけじゃあない。すべて先人の借り物だ。知らず知らずのうちにおおいに助けてもらっているに違いないのだ。それなのに、どうも自分で補助線を引き、歯車の構造を理解し、初見で罠をすべて見破りつつステッキをくるくる回しながら優雅に本の中を散歩したいのだ。助力なしに、ひとりで、努力なんかとは無縁に。
 高望みに違いない。ないものねだりだが、そういう心持ちがある。あったところで得するところもない。しかし不思議なことに、おれはどこかで「自分がわからないものの方が本当におもしろいものではないのか」とか思っている。下手に手を出して、日本語を目で追って、読んだ気にならない。読んだ気にならないのに、おもしろかったかもしれないなどと思ったりする。
 精緻な歯車や罠が、それをそうとおれに自覚させないうちに、おれにおもしろさを与える。そういうことがあるかもしれない。おれがおもしろいと感じるものの中には、おれがおれの中での言語化を超えたところで、勝手になにかを送りつけてきている、そんな想像をする。おれには言葉にできないのに、本の中のそいつと、おれの中のそいつが、おれの知らない二階で勝手にキャッチボールしてる。そんな想像もする。
 五大皆有響、などといえば、小説とて世界とて変わらない。おれは世界を明瞭に見ることができないが、もしもおれの中に一無位の真人とかいうやつがいるとしたら、やっぱり高い方、二階でキャッチボールをしているのかもしれない。できればおれも二階に上がりたいし、そこに混じりたいと思う。ただ、そのために努力をする気もないし、ある日、突然、明瞭になりはしないかと思ったりしている。おれは毎週toto BIGを買っていて、ある日、突然、金持ちになりはしないかと思っている。さあ、その確率を階差機関か解析機関で計算してみてくれないか。

★☆☆☆☆

レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)

レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)