漂白ってなんよ? 〜開沼博『漂白される社会』を読む〜

漂白される社会

漂白される社会

「写真はダメね。見るだけ、話するだけ、録音もダメ」
 神奈川県の関内駅近くの喫茶店で、二十代後半とおぼしき中国系男性と面会した。角刈りに短パン、サングラスという謎めいた風体。日本語は非常に拙い。その手にはマクドナルドの紙袋を持っている。
 その男は、「中に入ってる。出すのダメ。見るだけ」と言うと、その袋を差し出してきた。見れば何の変哲もない容器に入った液体。色は透明だ。

 本書のおおよその内容はオンラインの連載で読んで知っていた。

 ただ、「漂白」というのがいまいちよくわからないし、もっと神奈川県の関内駅近くの話が詳しく出ているのではないかと手にとった。関内の話は、文章を多少いじっていたがボリューム・アップしていなかった。ちなみに、関内にはマクドナルドが二店ある。
 漂白の話だった。「終章」から。

 現代社会とは漂白される社会だ。「漂白」とは「周縁的な存在」が隔離・固定化、不可視化され、「周縁的な存在」が本来持っていた、社会に影響を及ぼし変動を引き起こす性質が失われていくことを示す。これは、物質的なものに限ることなく、精神的なものにも至る。それは、これまで社会にあった「色」が、失われていこうとする社会であるとも言える。

 だ、そうだ。網野善彦的(?)な、名づけがたき周縁のものたちが、その猥雑な力を失う。社会からある種の生命力が失われていくかもしれない。……ということなの?
 正直なところ、おれに学がないせいか、この著者が巡った日本社会周縁めぐりの旅と、「漂白」の二文字がうまく接続しない。むしろ、よっぽどいろいろの色があるじゃないか。関内駅の近くにだって、と思ったりする。人々の善意が、そしてお上が漂白していく? それで構造が変わっていく。新たな周縁が生まれる、新しい鼓動、新しいフライヤー。違うのか?
 固定されていく、というところにおれの理解が足りない、実感が足りない、そういうことか。今は、決定的に固まっていくところなのか。と、すれば「漂白」にも頷けよう。ただ、おれはあらゆる意味でひきこもり性質なので社会の動きなんてものはわからない。周縁のものとも縁がない。かといって真っ当とされていた道を歩んでいるわけでもない。ああ一介の基地外でございます。というか、社会学のむつかしいことなどわかりゃせんで。
 わからせんで、なぜこんな本に手を出すのか。おれなりに社会を知りたいと思うのか。そうなのだろう。この生き苦しさを脳の障害だけのせいにはできない。その脳を収納する身体を包容する社会というものが何なのか。知りたくないわけでもない。あるいは、やがておれもどこかの周縁的な存在となるかもしれない、そんな思いもある。たとえば、ニートという語の人口に膾炙していなかったころにニートをしていたおれはどうだったか。とはいえ、中流からのティピカルな没落、ありがちな軽い精神の病、特別おもしろい話もないが。
 話を戻そう。漂白される社会、か。局面、局面によっては不可逆な固定が行われているのかもしれない。かといって、人間とかいう相も変わらぬ生き物の社会が、そこまで決定的に固定してしまうものなのだろうか。大げさか。数十年の単位でこの時代のこの日本とかいう国で起こりうることとしてならば、「自由」や「平和」、「快適な社会」を望む動きが、ある局面ある局面で歪んだ形の「漂白」を行なうことはありうる。不可逆な決定がなされることがあるやもしれぬ。
 ただ、おれにはそれを俯瞰する目もない、周縁から聞こえる声を聞く余裕もない、自分の本音すら言葉にできるかも怪しい。おれは、どんな社会を望むのか? さて。ところでAmazonの日本支社長だったか、世界は透明になるというようなこと(あらゆる商品やサービスの内訳がぜんぶわかるようになるぜ、みたいな話)を言ってて、そっちの方がしっくりくるところがあるのだけれど、なんかそんな話はどこで読めるだろうか。

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健康帝国ナチス

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……なんか参考文献の中にあった。

東西/南北考―いくつもの日本へ (岩波新書)

東西/南北考―いくつもの日本へ (岩波新書)

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)