イサーク・バーベリ『騎兵隊』を読む

騎兵隊 (中公文庫 C 13)

騎兵隊 (中公文庫 C 13)

……わたしどもは無学ではありません。インターナショナル一つにしたところで、わたしどもはインターナショナルがなんのことか、ちゃんと知っておりますよ。わたしのほしいのは善人のインターナショナルですじゃ。どんなしがない奴でも、一人ひとり登録して、最小限度の食糧はちゃんと配給してくれる、そういうインターナショナルですじゃ。おい、しがない奴、ひとつ食ってくれ、食って人生に腹いせをしてくれ、と言うてなあ。今のインターナショナルですと、同志の旦那、いったいなにをつけて食うものなのか、あなたがたにもおわかりにならんでしょう……」
「火薬をつけて食うのさ」とおれは老人に答える。「いちばん上等の血をかけてね……」

―「ゲダリ」

 ポーランドソビエト戦争。バーベリはセミョーン・ブジョーンヌイ麾下の第一騎兵軍団に通信社の特派員として参加した。それをもとに描かれるコサックたちの戦いと休息。暴力と友情。醜さ、美しさ。冷静な視線、乾いた空気と抒情性。さて、おれはこのバーベリを読んだのは、藤本和子が「ブローティガンがバーベリの影響を受けていた可能性がある」というようなことを書いていたからだ。『騎兵隊』は戦争の話だ、基本的に。とはいえ、切り取られた5分間とも言われる短編集。その光景を切り抜き、描写する、そこにブローティガンに通じるものがあるのか。非常に残念なことに、おれの手元にブローティガンの本も藤本和子の本もない。すべては流れていってしまう。
関連:http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/4198

 坊主や役人の乗るごくありふれた馬車が、内戦の気まぐれから、一躍脚光を浴びることになった。それは機動性をそなえた恐るべき兵器となり、新しい戦略と戦術とを創りだし、戦争の見なれた容貌を変え、機関銃車の英雄と天才を産んだ。おれたちがしめ殺したマフノはその一人である。マフノは機関銃車を己れの謎めいた狡猾な戦略の要とした。マフノは歩兵・砲兵はおろか騎兵すら廃し、これらの鈍重な集団にかえるに馬車につないだ三百の機銃をもってした。自然さながらの変わり身の達人マフノはそういう人物であった。

―「機関銃車について」

 マフノ。ネストル・マフノ。大杉栄は我が子にネストルと名づけた。すばらしい無政府主義者。そうか、マフノはそんな戦いをしていたのか。

 機関銃車部隊のもつ機動力は前代未聞である。
 ブジョンヌイはこのことをマフノに劣らずよく示した。こうした部隊を襲撃するのはむずかしい。捕捉することは夢想だにできない。
……
 おれたち世紀のブジョンヌイ騎兵隊では、機関銃車はこれほど絶対的な勢力を占めてはいない。とはいえ、おれたちの機関銃隊は、全部、機動作戦にはもっぱら馬車を使う。

―「機関銃車について」

 戦場のあり方も変わりつつある時代。ブジョンヌイなどで調べていたら、以下のリンクが出てきた。騎兵閥というのもあったのか。そしてポーランドよ。

 「軍司令官」と彼はブジョンヌイのほうへ向きなおって叫んだ。「兵どもにはなむけの言葉を言わんかい。ポーランド人どもは絵に書いたように高地に並んで、貴公を笑っておるぞ……」

―「チェスニキ」

 ほかに出てきた有名人としてはこの「彼」、クリメント・ヴォロシーロフ。KV-1、KV-2はまだ先の話。ヴォロシーロフは1969年まで生きた。ブジョーンヌイは1973年まで生きた。バーベリは1940年に粛清された。

 こうしてサヴィンコフ麾下の部隊が第六師団に大して束の間の勝利を得た。勝利を得たのは、諸中隊がなだれのようにおそいかかっても敵がひるまなかったからだ。

―「たたかいのあと」

 そしてサヴィンコフ。社会革命党戦闘団のあとのサヴィンコフの名が見える。おれはなんだかうれしくなってしまった。戦っていたのだな、サヴィンコフ。サヴィンコフは1925年に死んだ。
 
 ……というように、おれはバーベリの文体がどうであるとか(手紙や報告書の形式をとっていたり遊びがある)、その文学に込められたものはなんだとか、インテリのユダヤ人としてのアイデンティティとコサックとの間にあるものだとか、彼にとっての革命とはとか、同時代やその後の文学に与えた影響は何なのかとか、なにも論じられん。むしろ、くだらん細かいことばかりが気になる。一番気になったのは次の文章だったりする。

……彼は腹這いになりながら、両手に機銃をかまえていた。ワニスを塗った、火力の強い日本の騎銃である。二十歩ほど先から、パーシュカは若いポーランド人の頭蓋を撃ちくだいた。脳味噌がおれの手の上にもかかった。

―「中隊長トゥルノフ」

 ソ連のコサックが日本の騎銃を? 1919年から1921年くらいに? 検索すると、次のような情報が引っかかった。

三八式小銃が何十万挺という単位で輸出されていたとはしらなかった。ロシア(労農赤軍?)に、白系ロシアに。メイド・イン・ジャパンで撃ちあっていたのか? いや、上の「騎銃」がそうとは限らないが、派生型の三八式騎銃というのもあるようだし。いずれにせよ、これは意外だった。
 とかいって三八式の話で終わるのもなんなので、適当にいいところを引用して終わる。

 おれたちはこうしたいきさつでフレーブニコフを失った。おれはひどく悲しかった。フレーブニコフはおれと似た性格の、ものしずかな男だったからだである。サモワールを持っているのは、中隊じゅうでこの男だけだった。戦闘のない日には、彼とおれはよくいっしょに熱い紅茶を飲んだ。そんなとき、彼はきまって女の話をしたが、おそろしくたちいった話で、おれは聞いていて恥ずかしくもあれば楽しくもあった。思うにこれは二人が同じ情熱にかられていたためだろう。おれたちは二人とも五月の草原を見るような目で、女や馬が行きつ戻りつしている草原を見るような目で、この世を見ていたのである。

―「ある馬の話」

 『ビッグ・サーの南軍将軍』みてえ、かな?

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