カー

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先日、鉄道模型博物館に行った。帰ろうとしたら日産の大きなショールームがあった。でかいフロアに、エンジンはかからないがいろいろスイッチが入ったりするくらいの状態のカーがたくさん置いてあった。ちょっと寄ってみた。けっこう人がいて、思い思いのカーに乗り込んで座ってハンドルを握ってみたりしている。カーのゲームに興じている高校生などもいる。そこかしこからカーのドアーを開けたり閉めたりする音が聴こえる。べつにカーの店員が寄ってくることもないから気軽なものだ。そこでおれと女は買えもしない高級カーやスポーツカーに乗り込んではシフトノブをいじったり、ウインカーを出したりした。

カー。おれは子供のころ、いや、大学に入るくらいまでは自分のカーというものをいずれ所有することになるだろうと信じて疑わなかった。そういうものだと思っていた。おれのものではなかったけれど、イギリスの小さなカーで女と奥湯河原の温泉旅行なんかをしたこともあった。

ところがいまのおれにはおれの自由になるカーがない。バスやタクシーでもなく、レンタカーでもない、マイカーという意味でのカーだ。おれはほとんど横浜市から出ないで生きているのでカーなど必要はない。しかし、カーがあればいろいろの選択肢が広がるのも確かだ。遊びに行ける場所の範囲もずいぶんと広がるだろうと思う。通勤には必要ないけれども(なにせ徒歩範囲なので)、遊ぶことには使えるのだと思う。

いや、それよりもカーを運転する楽しみというものが味わえるというものだ。免許をとったおれは家のフォルクスワーゲンのセダンを毎夜意味なく走らせたものだった。カーには運転する喜びがある。そこにどれだけの意味を見出すか、あるいはどの程度の人がそれに肯くかはしらないが、それはたしかに存在するのだと思う。カーをドライブするファン。カー離れなどと言われるなか、カー会社がカーをドライブする広告を出すのもわからないではない。ただ、効果があるかどうかはしらない。最初からもうカーの免許なんてとらない人間には通じないだろう。そしてもちろん、おれのようにカーのタイヤすら買えない貧乏人にも通じない。

そしてまた、技術革新によってカーは自動運転化が進むのだろうし、それは想像しているのよりずっと早く進んでいるように見える。おれのようにカーをドライブすること自体にファンを見出す人間も少なくなっていくだろう。

もっとも、こんなことを書くおれが最後にカーをドライブしたのはいつだろう? おれはスリープスプリントによって抑えているとはいえ睡眠時無呼吸症候群持ちだし、注意書きには運転を控えるよう書いてある抗精神病薬を日常的に服用している。おれがせっかくのカーを意図せず手頃な殺人マシーンにしてしまう可能性は、おそらく平均的なカードライバーよりずっと大きいのだ。

だからといって、おれはあまりカー自体の悪口をいいたくないというところがある。でかいショールームで何回かカーの座席に座ってみてそう思った。だから、カーなんて酸っぱいブドウなんだぜ、みたいな内容にもしたくない。ただ、おれもカーを持てる人間になりたかったし、運転を楽しめる人生を送りたかった。面白くもないが、正直に書くとそういうことになる。

 

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