高橋源一郎『さよならクリストファー・ロビン』を読む

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

さよならクリストファー・ロビン

 ぼくは、今晩、最後のお話を書くよ。そして、すべてを終わらせるんだ。それが正しいことなのか、ぼくにはわからない。でも、ただのクマとしては、頑張ったと誉めてほしいな。
 ぼくが、最後に書くお話は、ぼくたちがいつも行った一〇〇エーカーの森のお話だ。一度、なくなったものは、戻っては来ないというから、もしかしたら、ぼくたちは、あの森には行けないかもしれない。だったら、ごめんね、クリストファー・ロビン
さよならクリストファー・ロビン

 「クリストファー・ロビンって『プーさん』よね」と女。
 「え、そうなの?」とおれ。
 おれは『くまのプーさん』を知らない。キャラクターは知っているけれど、おれは作品として『プーさん』をしらない。中川いさみの『クマのプー太郎』はよく知っている。
 おれがネットに書き散らしている文章が、もしも、ときどき優雅で感傷的に感じられるとしたら、それは高橋源一郎が原因だろうと思う。おれがフィクションというものを読まなかったとき、唯一手にとっていた小説、それは高橋源一郎の作品だった。『さようなら、ギャングたち』、『虹の彼方に』……。
 そしておれが小説というものを読み始めたとき、なかなか高橋源一郎に手が伸びなかった。おれは宮沢賢治をよくしらないからだ。宮沢賢治を読んだ上で、高橋源一郎宮沢賢治ものに手を出すべきだろう。おれは順番にこだわることがある。まあ、ミルンを見ずに本書を手にとってしまったのだけれど。というか、おれは西洋の文学の盛衰史も知らないし、日本文学の盛衰史も知りはしない。それを網羅したうえで高橋源一郎に手を出そうという時間も残されちゃいない。あるいは、おれが『さよならクリストファー・ロビン』を読むのにもってこいの日、というのがこないだの日曜日だった可能性もある。
 あなたもミルンを知らずに本書を手にとってもいいかもしれない。本書は6つの断片によって成り立っている。「さよならクリストファー・ロビン」、「峠の我が家」、「星降る夜に」、「お伽草子」、「ダウンタウンへ繰り出そう」、「アトム」。なにか世界を破滅させるようなことがあって、世界を破滅させるような、ひょっとしたら悪のようなものがあって、でも、それに抗うような話だ。ひょっとしたら違うかもしれないし、おれは小説をそのように読むのが苦手でならない。書いてある文字を読む、単語の意味を読む、背景にあるものを想像しない。おれに悪は想像できない。けれど、なにか書けとおれがいうので、こう書いている。誤っている感じがする。それでも書かなきゃいけないような気がする。
 あなたはどう思うだろうか。まあべつにおれに興味はない。ただ、べつにこの本からすべてをはじめてもいいんじゃないのか、という気もする。それは高橋源一郎という作家の作品かもしれないし、文学かもしれないし、世界かもしれない。ここには『にんじん』のような目線で描かれたフレッシュな世界があって、ヒップホップ的な引用が躍動していて、そこはかとない悲しさがある。そんな本に興味があるなら、読んでみるといいと思うぜ。おしまい。

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さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)