デニス・ジョンソン(作家)『ジーザス・サン』を読む

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

 雨が降っていた。巨大なシダが頭上に垂れていた。森が漂うように丘を下っていた。急流が岩のあいだを流れ落ちるのが俺には聞こえた。なのにあんたらは、あんたら馬鹿らしい人間どもは、俺に助けてもらえると思っているんだ。
―「ヒッチハイク中の事故」

 訳者である柴田元幸いわく「二十世紀末にアメリカで出た短篇集といえばまず誰もが名を挙げる一冊」らしい。おれはデニス・ジョンソンの名前すら知らなかった。検索してみたらバスケットボールの選手の名前が出てきた。(作家)デニス・ジョンソンは日本語版Wikipediaの項目が作られていない。作られてもいいような気がする。
 落ちぶれた人間、底辺の人間、駄目人間の話である。訳者はレイモンド・カーヴァーの名を挙げている比較しているが、おれにはおれの敬愛するチャールズ・ブコウスキーの系統に思えてならない。ということは、ダン・ファンテの系統といってもいいだろうし、ともかく、そういう系統の一冊だといっていい。わかる人にはわかるだろうし、わらぬ人(幸福な人!)にはわからないだろう。
 そういう系統の一冊として、「そういう系統だなぁ」と読み終えてもいい。ぜんぜん構わない。でも、訳者がいうところの「電位の高さ」(おれは「電位」というものの意味がわからないが)というものはたしかにある。たとえば、おれがこの項の冒頭にひいた部分がどのように現れるかという一点にある。なるほど、なにかすごい「地雷」が仕掛けられているようだ。

 車輪がキキーッと鳴って、いきなり見えたのはみんなの大きな醜い靴ばかりだった。音が止んだ。列車はさびれた。胸締めつけられる情景の前を次々通っていった。
 界隈を抜け、プラットホームを過ぎるあいだずっと、無効にされた人生が俺を追って夢を見ているのが感じられた。そう、幽霊、痕跡。いまだ残ってる何か。
―「ダーティ・ウェディング」

 それにしても、(どうでもいいことかもしれないが)この短篇集に出てくる「俺」のような人間はなにをして食っているのだろう。何をして食っているかという場面もあるが、そうでないところもある。駄目人間の世界にはそれなりのネットワークのようななにかがあって、何かしらして食っているのだろうか。おれにはそういうものがまったくなく、一人アルコールに溺れているばかりなので、想像がつかない。死ぬことばかり考えている。落ちきるところまで落ちて、そこから保護を受けて立ち直りたいという願望がある。まるでどこかの殺人犯のように。

……「工芸アワーも新たに決まりました」――上下に揺れる殴り書き――「月曜の午後2時です。前回の課題はパン生地で動物を作ることでした。グレース・ライトは可愛いスヌーピーを、クラレンス・ラヴェルは軍艦を作りました。ほかにもミニチュアの池、亀、蛙、テントウムシ、などなどたくさん出来ました。
―「ベヴァリー・ホーム」

 一億が火の玉となって総活躍しなくてはならない時代に、おれはそっぽを向く一頭のオットセイでありたいと思う。思うが、そんな孤独に至る前に飢えて死ぬのだろう。おれには微かなる矜持があって、落ちきるところまで落ちきることもないように思えて、生まれ変わるなら本当の生まれ変わりを望むしかないのだと感じている。くだらない矜持。しかし、飢えて死ぬか、自死するしかない人生。このくだらなさ。遺伝子の多様性の一部として生まれ、結局はこの世界に適合しなかった性質の不幸。アメリカの事情がどうか知らぬが、おそらくはこれからの日本も不幸比べの文章が、地の底を競っていくことになるだろう。それを見るころにおれはこの世にいないだろう。

……人間がこの世で生を終えて次の生を生きるまでのあいだ戻っていく場、やはりふたたび生まれるのを待っているほかの魂たちと交わる場に対して抱くのと同じような気持ちを抱いていた。
――「ベヴァリー・ホーム」