『死のエピグラム 一言芳談を読む』を読む

死のエピグラム―「一言芳談」を読む

死のエピグラム―「一言芳談」を読む

吉本隆明の名が大きく出ているが、冒頭の解説のみである。

 日本の古典のなかで「一言芳談」は、五本の指に入るくらい好きだ。理由は、短章であること、盛られている思想が簡明で、徹底していて、死を欣求することで病的にまで倒錯していることなど、たくさん挙げられる。

 そしてこう述べる。

 この病的な境涯にゆきつかない安全弁を具えた信仰は、もともと宗教とはいえない。

 これである。とはいえ「これ」といったところで、おれの頭の中から『最後の親鸞』や『信の構造』が出てくることもない。「はー、そうなんや」と新たに思うばかりである。

来世があるということ、来世はすばらしい浄土であるということ、もう再び苦の現世に輪廻しなくてもいいということ、本来ならアジア的な貧困が生みだしたはずのこの浄土教の教義が、遁世の人たちの憧れまで昇華されてゆく。この過程は悲劇的であるとともに、衆生の救済概念としては最終のところまでゆきついている。

 ということである。
 で、そもそも『一言芳談』とはなんぞや? ということだが、次の通りである。

鎌倉時代の法語集。作者未詳。法然など浄土宗高僧の格言・短文を集めたもの。

一言芳談(イチゴンホウダン)とは - コトバンク

 (編)著者不明の法然などの格言だのエピソードだのの集まりである。ついこないだ一遍上人の聖絵を見たおれからすると、その「捨ててこそ」の思想なども入ってるんじゃないかと思うが、まあ、法然―一遍ラインもあるので同じことかもしれない。この「芳談」の著者についての考察は「訳者解題」などでなされているので、そこが気になるなら読んでみるがいい。
 で、おれもこの「芳談」を気に入った。元より「禅も魅力的だが、真宗系の方が楽そうだなぁ」くらいのおれにとってみて、こいつはいいなあと思う言葉が並んでいる。

 又云、いたづらにねぶりたるは、させる徳はなかれけども、失がなきなり。

 どうだろうか。何もなしに寝ていることは、これといって徳はないけれども悪いところもない、というのである。そう、明禅法印さんが言っとられるとのことである。寝てて悪くないというあたり、いいじゃないか。いいとは言ってないが、悪くないといってるあたりがいいじゃないか。踊り念仏もあれば眠る念仏もある、とまでは言ってないが、そんな想像をしてみてもいいじゃないか。眠る宗教、眠って喜ばしい死を待つばかりの宗教、そんなものがあれば、それは悪くない。

 明禅法印云、しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどの事は、大抵せぬがよきなり。

 これもどうだろうか。しようか、しまいか思いあぐんでいるときは、大抵しないほうがいいと言う。この積極的な消極性におれは心地よさを感じる。「迷ったらやってみろ!」とか言われるよりどれだけましなことかわかりゃあしない。明禅法印はいいやつだと思う。
 とかなんとか怠け者の物言いかもしれないが、やはり死のエピグラムである。

 敬仙房が言うのには、
 生あるあいだには、ただ生を厭いなさい。

 これである。生を厭え。これはとんでもない思想、発想かもしれない。だが、ここに強烈な浄土思想があるといっていい。とはいえ、積極的に死ねと言ってるわけでもない。「生あるあいだ」は自力ではどうしようもないという感じがある。そこのところは他力によるものだよ、というニュアンスがあるように思える。とはいえ、生を厭うという倒錯、これである。

 顕性房云、我は遁世の始よりして、疾く死ばやと云事を習しなり。さればこそ、三十余年間、ならひし故に今は片時も忘れず。とく死たければ、すこしも延たる様なければ、むねがつぶれて、わびしき也。さればこそ、符護一も、よくてもたむとする事をば制すれ。生死を厭事を大事とおもはざらんや、云々。

 たとえかご一つでもよいものを持とうとする気持ちを抑えるという。「疾く死ばや」であり、一刻も早く死を願うのである。これはなかなかハードなものである。ウォーボーイズのラブリーデイを請い願う心境である。いやはや。
 ……いやはや、などというおれも死を待ち望む一人である。厭離穢土、欣求浄土。これである。この世はおれにとって穢れている。あるいは、おれが穢れにすぎない。おれはこの世に向いていない。とっとと別の世界に行きたい。そこが浄土であれば望ましい。とはいえ、今、この瞬間に死ぬ勇気もない。ゆえにおれは心もとない「南無阿弥陀仏」を唱える。そのくらいしかできない。それくらいしか。

 又云、凡浄土宗の元意、たすけ給へ、あみだ仏と、思ふにすぎず。