ディズニーランドの社会学: 脱ディズニー化するTDR (青弓社ライブラリー)
- 作者: 新井克弥
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2016/07/25
- メディア: 単行本
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なんか声のいい人がラジオで推薦していたから読んでみた。
言っておくが、おれはディズニーが苦手である、ミッキーマウスが苦手である。幼少期からである。おれが好んだのは毒のある藤子不二雄であり、正義と悪が混沌としているガンダムの世界であった。おれはディズニーの浄化された世界が子供心にうさんくさく感じられた。性に合わなかった。なぜだろうか? そういう性根を持って生まれてきたとしか言いようがない。そのくらい、おれのディズニー≒ミッキーマウス世界に対する意識は根深い。根深いゆえに興味深い。
そして、ゆえに、ディズニーランドが脱ディズニーランド? みたいなところにも興味がある。「おれのディズニーランドが」とかいうところとは遠くはなれている。ちなみに著者はキャスト経験もあるディズニー者である。
本書では、本来のディズニーランド(アメリカ)が、ウォルト・ディズニーが志向したウォルト主義とはかけ離れていく東京ディズニーランド、ディズニーシーが描かれている。読みやすさのためにウォルト主義とそれを逸脱する「Dヲタ」との対比が描かれている。だが、その「Dヲタ」が決して否定されているわけではない。この社会の縮図、あるいは先端としてのディズニーランドのあり方について描かれている。
「Dヲタ」。本来のテーマパークのテーマではなく、おのれの趣味趣向のみに関心が行く人々。マイ=ディズニー。それがオタク化する社会の先取りであり縮図。グッフィーグッズ(おれはダッフィーという存在を知らなかった。主に日本独自のキャラらしい)に身をかため、アナ雪のコスプレで自らの求める部分のみを追求する人々。それのなにが悪いのか、べつに悪くない。ネギトロが語源から離れ、回転寿司のネギトロになっていゆく。ただ、社会はそうなってゆく。そのようなものらしい。おれにはよくわからない。いや、おれがディズニーをわからぬだけで、特定のキャラやなにかに向っていく性向はわからぬでもない。そして、それに応えてきたのが、アメリカとは別路線を歩み始めているかのようなTDLということになるのだろうか。
そして、そのような「ドン・キホーテ化」、「アキバ化」の先になにがあるのか。イオンモールの先になにがあるのか。衆多名詞化(←これは意味がよくわからん)された「みんなぼっち」の世界がどうなるのか。USJはどうなのか。あるいはもうその世界にいるかもしれず、やはりおれはおれの世界に閉じこもっているのかもしれず、やはりすばらしいストライクウィッチーズの世界に比べたらディズニーはなぁ、とかわけのわからないことを言って過ごすのであろう。おしまい。