買ってみたけど、これはすごいな。そりゃPhotoshopとか使えばできる加工なんだけど、それがリアルタイムで、この精度で、動画もいけるし、いやはや。 / “写真や動画を手書きアニメ風にするアプリ「Olli」が人気に 漫画家やイラ…” https://t.co/KSOxMXCXSe
— 黄金頭 (@goldhead) 2018年11月8日
……というわけで、「Olli」である。
これが全く新しい、革新的な、見たこともないアプリだとは言わない。先行例があるかもしれないし、上に書いたとおり、Photoshopなどで写真を加工すればこういう画像は作れる。
が、おれが出会ったのは「Olli」だった。リアルタイムで、こういう画像がiPhoneの画面に映る。ボタンを押せばシャッター。押し続ければ動画になる。
まあしかし、成果品などはどうでもいいのだ。おれはiPhoneの画面を見て、目の前の世界がアニメみたいになっているのが、楽しくてたまらないのだ。
精細な現実映像がおれの目を通して認識できるというのに(メガネかけてないとボケてて見えないけどな)、なぜあえて情報量の減った画像にこうも惹かれるのだろうか。
「情報量の減った」は、別の言い方もできるだろうか。情報を取捨選択した結果。結果として、自分の見たいものが強調される(……かもしれない)。
むろん、人間の目というか脳も凄まじい演算をして必要な情報の取捨選択をしている……とかなんとか。さらにそれを敷衍したものとか言えたりしないだろうか。
そう考えてみれば、たとえば風景画というものが、人間にとって価値のあるものとして存続している理由と重なるかもしれない。目で見ることができる、写真に残すこともできる。それでも、なお風景画というものは人類から捨てられていない。
見知っている風景が、少しべつの形になる。ひょっとすると、情報を取捨選択することによって、心象というべきものが強調されて残るのかもしれない。
たとえばアニメ作品で、自分の見知った土地が描かれているだけで、画面に釘付けになってしまうようなこと。むろん、実写映像でもテンションがあがるが、おれの場合はアニメのほうがうれしい。
その理由はよくわからない。あるいは、実写映像より、人間の手によって情報が取捨選択されているという点になにかがあるのかもしれない。
絵画にしてもアニメにしても、人はなんでも描ける。画力が、という話はおいておくとして。そうであれば、現実で目にしている景色なんぞ描かずに、想像の赴くままに現実世界にはありえない光景を描いたほうがずっとおもしろいように思える。
むろん、そのような光景を追求する芸術もある。しかし、先にも書いたとおり、風景画というものは見捨てられていないし、スナップ写真も消えてはいない。現実を、少しだけ移し替えたもの。それに対する嗜好。
たとえばおれが「Olli」のリアルタイム描写を見て感じるおもしろみ。これにはなにかがあるような気がするが。おれにはまだそのなにかを掴みきれてはいない。
できることなら、ヘッドセットでも装着して、視界のすべてがアニメ化された世界で生きていきたい。これは、電脳世界にダイブするよりずいぶん簡単な話だろう。
ただ、そんな装置でアニメ世界に没入しているやつが歩いていたら、交通上危険である。
それにしても、こうやって近所で適当に撮った写真を貼り付けているだけでも、なにかアニメのエンドロールみてえでいいなあと思う。厳密な精度とか、出来栄えは、もちろんしっかりとプロの手を経た絵とは違うだろうが、おれにはこの程度で「いいなぁ」と思うのだ。
おもえばおれは、幼少のころより、実写よりアニメが好きだった。アニメを見ているほうが心が落ち着いた。
とはいえ、おれが深夜アニメというのを見始めたのは三十歳過ぎてからだ。アニメに戻ってきた、といえるかもしれない。
アニメのなにがおれを惹き付けるのか?
人間は現実と少しずれた現実をなぜ好むのか?
世界はアニメ化したがるのか?
考え中。