抑うつ状態になったことのない精神科医って普通にいるわけだけれど

※着地点が見えないまま書き始めました。

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おれがおれの行きつけの医者に行くようになって何年も経つが、たまに症状などを話していると、「あれっ?」という反応をされることがある。前にも言ったような気がするんだけどな、みたいな。そりゃあ精神科の開業医がどれだけの患者を抱えているのかという話なんだけれど、それはそうとして、この医者は抑鬱状態になったことがあるのかしらん、などと思ったりすることもある。

とはいえ、おれはべつに医者が患者の病を体験してなきゃいかんとは思っていない。むしろ、そんなことになったら大変だ。そりゃ、風邪をひいたり、お腹を壊したことがない内科医はほとんどいないだろうが、骨折をしたことのない外科医なんかは普通にいるだろう。末期がんにかかった医者しか末期がん患者を診られないのであれば、需要と供給のバランスは保てないし、今の技術では男性の体を持った産婦人科医は出産を体験できない。出産は病気ではないけれど、ともかく、べつにその疾患その他を身を以て体験していなくても、治療というものはできてしまう。

さらに医というものをひろく見れば、獣医がいる。犬や猫が「わかってねえよな」と思うかどうかしらないが、人間の身体を持っている獣医が犬や猫の疾患や怪我を体験することは不可能だ。しっぽも猫耳もない。それでも治療する。

もっと医というものを探してみれば、樹木医というのもある。これはもう、同じ地球の生命体というくらいの共通点であって、人間と犬や猫の間にある類似性すら存在しない。

こうなってくると、生命でないものの医師というのもいるに違いない。なんとなく頭に思い浮かんだのは「おもちゃのお医者さん」であって、壊れた玩具のパーツを取り替えたりして修理する。それも治療といえば治療だろう。もちろん、べつにおもちゃじゃなくたっていいのだ。自動車の修理工もいるだろうし、ビルをメンテナンスしたりするのも同じことではあろう。

というわけで、人間は医師から見れば壊れたミニ四駆と同じということも言える。医師には故障した歯車のせいでタイヤがうまく回転しないという経験はないけれども、歯車を取り替えれば治ることを知っている。そして、そのようにする。

医師は、「身体が動かなくなる」という抑うつ状態、倦怠を味わったことがなくとも、ある薬で脳の調律をすると、それを軽減することができる……かもしれない。少なくとも、その可能性を選択する。機序がはっきりしている病気や怪我なのであれば、もっと確実に治療する。

自分にとって自分の身体というのは取り替えのきかない唯一無二のものであって、思考と分かちがたく存在している。痛みなら痛みそのものを他人に共有させることはできない。

一方で、他者にとってみればおれの身体というのは一個の「もの」にすぎない。おれの痛みも痒みも、おれの場合は今のところ言葉で伝えるよりない。いや、関節が腫れ上がってるとか、皮膚がただれているとか、そういう場合は見せるという伝達手段もあるわけだが。

そうだ、見せられる病というものは存在する。むしろ、医学技術の進歩は見る方法の探求という点が大きかったに違いない。外からでは見えない骨折をレントゲンで可視化したり、肉眼では見えない小さな病原菌を可視化したり。

して、精神疾患というものはどうなのか。これもやはり可視化の方向にあるだろう。光トポグラフィー検査とかいうやつとか、そういうやつだ。そうなると患者も楽だろうし、医師も楽だろう。よくわからないが、修正型電気刺激療法などで外科的に治療することもできる。

人間の身体という「もの」を「もの」として徹底的に可視化させていくことによって、われわれはさらに自らの身体という機械を適切に修理できるようになっていく。今はまだ未解明の精神疾患の機序もあきらかになれば、ますますわれわれは機械としての身体を持つことになる。膝の関節ばかりではなく、心の動きを調整できるようになる。

さておれは「心」という言葉を使ってしまったが、解明されたあとの「心」は「心」なのかどうかということになる。脳の仕組みが少しばかり明らかになったあとから、人間が抱きつづけている問いかけに、また直面することになる。われわれの「心」というのは単なる機械的、化学的な反応、反射にすぎないのではないか。

……という話は別にするとして、話を戻そう。どこに戻そう。抑うつ状態を味わったことのない医者の話だった。むろん、おれのかかりつけ医が抑うつ状態を体験したことがないという証拠はどこにもないのだけれど、「体験したことがない」という精神科医もいるだろう。そういう医師にとって、はたして精神疾患者というのはどのように見えているのだろうか。そこが興味深い。

たしか、視覚と聴覚から統合失調症を疑似体験できるキットなどあったと思うが、医学を学ぶにあたってそのような実習はあったりするのだろうか。ちなみに、おれがさっきから言っている抑うつというのは、ひたすらに身体が動かず、動いたとしてもすごくスローで、立っているのも億劫で、なんとか外を歩いていても、すぐそこの道端にへたりこんで、丸まって、動きたくなくなるようなものだが、それはどうだろうか。これまた、重りなどをつけて老人の身体感覚を疑似体験できるキットがあったと思うが、それに近いようにも思う。

あるいは、そのような体験ができる薬というのが存在していて、精神科医にならんとする人間は、その儀礼を受けているのかもしれない……というのは下らない妄想だが、もしも精神疾患の機序というものが明らかになれば、そのようなドラッグを作ることも可能かもしれない。そこまでメリットがあるのかわからないが。でも、そんな薬があれば、「抑うつ刑」などといった身体刑が生まれてしまうかもしれない。

おれはいま、「刑」といったが、おれが体験する鉛様麻痺や抑うつ、倦怠というものは、おれにとって「刑」のように感じている、そういう実感があるからそう言った、おれは罰を受けている。だが、罪が思い当たらない。いや、生まれてきたこと自体が相当の罪であって、おれはだれに許しを請うていいかもわからず、ひたすらに罰を受けなくてはならない。

このような罰の発想というものは、おれ特有のものだろうか。精神疾患者特有のものだろうか。あるいは、慢性的な病気や障害を持つ人間にありがちなものだろうか。とはいえ、おれだってひどく腹を壊したりするくらいでも、何の罰かと考えたりはするが。「あのときのタバスコだな」となれば、自業自得ということにもなる。

おれはいま、「自業自得」といったが、「自」であるところの「私」というものが存在するかどうかという話にもなる。寝返りをうつことすらままならない状態の私は、自分を自由にできない。それでも私が私であるというとき、それは可視化されうるものなのだろうか。サンスカーラやドゥッカという話になるがそれはまた。

して、精神科医というものは患者に相対してこれをどのように見ているのか。それは風邪を引いた人間や、骨を折った人間と相対するのと同じ心持ちであるのか。さらに人間の脳あるいは臓器などによって「心」らしきものの機序が完全に明らかになったとき、まだAIに取って代わられず、精神科医というものが存在すると考えているのだろうか。精神科医は「心」を扱っているのだろうか。そんな話を聞いてみたいと思うが、五分治療ではそんな暇はないのであった。

 

おしまい。