80点でなく60点の人生を。

f:id:goldhead:20111211011628j:plain

一ヶ月に一回の通院。精神科医から、最初に「あなたの場合、80点ではなく、60点の人生を目指すべきだね」と言われる。突然のことに「?」となって、「はあ」と答える。その後、正月明けからここまでの体調を報告する。寝付きがよくないことがあるからアモバンを最大量まで上げることを交渉して、そのようになる。

して、「80点ではなく、60点の人生とは?」と、帰り道におれは考えはじめた。おそらくは、普通の人間が100点の人生として、おまえの能力や病状では80点を目指すのも難しいから、無駄な努力などせずに60点を目指せ、ということだろう。無駄な努力は双極性障害(双極症)のおれにとって悪影響を与えるかもしれない。

とはいえ、80点や60点とは、なにを基準としたものだろうか。普通の人間は100点なのだろうか。あるいは50点なのか。そのあたりがよくわからない。偏差値でいえば、80などというのはあり得るはずもなく、60というのも手帳なしの健常者が頑張って成し遂げるくらいのものだろう。それはおれにとって難しすぎるといっていい。偏差値60は無理だ。

となると、0が所持金なしで住所不定、無職、福祉の助けもなく、寒さに負けて凍死といったところだろうか。それが0なら50はどうだろうか。放っておくと外と変わらぬ室温になる部屋で、外で暮らす人と同じような厚着をしてなんとかものを食うてしのぐのが50点だろうか。それはなにか。おれだ。となると、おれは10点上積みしなくてはならないということになる。80点となれば、持ち家があって、配偶者や子供がいる世界かもしれない。いや、それは100点だろうか。

ともかく、おれは100点の人生どころか、80点も諦めて、60点を目指さなければならない。ということは、今のおれは60点を下回っているということだろう。そして、いくら上を目指したところで、100点は論外であり、80点も目指してはならず、60点が頂点であるということだ。60点という上限を見極め、精神障害者の怠け者としてなんとかそこまでは上がっていいよ、ということである。

そう考えると、おれには60点という基準があまりに難しいことに思えて仕方がない。「あなたは60点の人生を送れていますか?」という問いに対して「送れている」と答えられる人間が、いったい今の日本にどれだけいるだろうか? おれのような出来損ないには、とてもじゃないが「送れている」と答えることはできない。おれの人生、生活といったものは、せいぜい30点といったところだろう。これを2倍にすることなど、想像もつかない。

あるいは、点数の基準が世間的な富の比較でなく、おれという人間の能力の上限が100点であるとしたらどうであろうか。自分の脳力を最大限発揮して生きている人間などあまりいないのだろうから、80点でも相当なものである。では、60点ではどうだろうか。これもなかなか測り難いことであるように思える。とはいえ、おれの能力の最大限などというものもたかが知れているというか、人間の平均からしたら下回っていることに違いはない。平均以下の愚鈍な人間である。この愚鈍な人間が100点の能力を発揮したところで、やはり愚鈍は愚鈍であって、もとから器量の大きな人間の半分にも満たない。そして、その100点も論外であって、80点もありえず、60点しか目指すことができない、許されないとすれば、おれの社会的な立場というところは10か20かといったところだろう。屋根のある場所で眠り、喉の乾きの心配もなく、空腹もあまり心配しなくていい。その程度で合格点ということだ。

「その程度の合格点なら……」とおっしゃる方もおられるかもしれない。いや、それはあなたが優れた人間、恵まれた人間だから言えるのだ。おれにはそれを維持することにも不安を抱えている。おれはおれの能力と障害によって、100点の人生など望めないことを知っている。80点すら無理だという。60点を目指せという。しかし、おれにはその60点すら無理なことだ、求めても無駄なことだと言われたのである。見知らぬ誰かではなく、10年以上付き合いのあるかかりつけの精神科医から言われたのである。これはもう、なんというか、かなり厳しい人生であって、そこによろこびの一つも見つけることはできないし、見つけようとすることも無益だといっていいのではないだろうか。

優れた人、恵まれた人よ、あなたは何点の人生を送っているのか? あるいは何点の人生を求めているのか?