1万人に1人の無能者

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年末年始のテレビ番組を確認するために、「TVガイド」という雑誌を買った。毎年「TVブロス」を買っていたのだが、あいにく書店で見つからなかったのだ。あるいは、たしかもうそういう雑誌ではなくなっていたのだろうか。

まあいい、「TVガイド」だ。「TVガイド」にはたくさんのジャニーズの人たちの写真が、記事が載っていた。おれはあまりジャニーズに興味はない。「君ら、わりといい歳なのに、イチャイチャくっついて、笑顔作って、大変やなぁ」などと思うくらいである(追記:あらためて見てみると、各グループの構成員がそれぞれすべてのパターンで二人一組のハグ写真を撮られていた。算数の問題みたいだ)。おれに必要なのはただ番組表だけだった。

興味のないものを読むことはある。インターネットなど、まったく興味のないものを無料で読むことができる、奇妙な世界である。そして、ときどきは自分に縁のないものをクリックしたりする。たとえば、ノー・スキル高卒底辺中年独身男性(おれの収入を知ったら、あなたたちは腰を抜かすだろう)のおれが、こんな記事に目を通すことがある。

type.jp

華麗ともキャリアともチェンジとも技術ともトレンドとも縁がない。だが、たまにクリックしたりする。読んだりもする。そして、次の一文が目に飛び込んできた。

……そう考えていけば、そこで得たノウハウは仕事にもフィードバックできるし、複数の領域を横断し、掛け算できれば希少性は上がります。1万人に1人のエンジニアになるのは難易度が高いけれど、「10人に1人」なら不可能じゃない。その上で、音楽についても10人に1人という存在になれば、100人に1人しかいない「音楽ができるエンジニア」になれます。加えてゲームの実装が10人に1人のレベルでできたなら、「ゲームと音楽をインタラクションにプログラミングできる」という1000人に1人のエンジニアになれますし、さらに10人に1人のディレクション能力を身につけたなら、「1万人に1人」の逸材になれるわけです。

一つの領域を極めようとするのは大変ですが、2〜3つの分野で10人に1人の能力を持つだけで、極めて希少性の高い人材になれる。そう考えれば、人生はもっと楽になると思います。

はっきり言って、目新しい話ではない。10人に1人くらいのスキルを2つ、3つ掛け合わせていけば、優位に立つことができる。ビジネス書の古典か、あるいは本当の古典が元ネタなのかしらないが、そういう話はある。

が、今日のおれはちょっと違った。ふと気づいたのだ。「10人に1人の無能」がさらに「10人に1人の無能」と掛け合わされることによって、「100人に1人の無能」になるのだ、と。

おれは、だれかになにかの才能や技能、生きていく上での武器があっても、それを台無しにしてしまう「0」があって、その掛け算によって、少なくない人間が「0」の人生を歩むものだと思っていた。漠然とそう思っていた。

しかしどうだろうか、無能というものも(「無」が「0」的であるとするならば「不能」でも「役立たず」でもなんでもいいが)、組み合わせによって、どんどんマイナスの方に落ち込んでいく。その結果、10人に1人の無能者が10万人に1人の無能者になる。そうなっていく。それによって社会の序列というものができあがっていく。

たとえばおれの場合、生来のやる気の無さで10人のなかの1人になる自信はある。向上心のなさでも、そうだ。それに、コミュニケーション能力に難がある。極度の人見知りである。これでも10人いたら最低を取れる。電話が苦手だ。これもそうだ。双極性障害を患っていて、完全な抑うつ状態、倦怠に陥ることもある。それ自体、10人に1人というレベルではないだろう。さらには、朝も苦手だし、引っ込み思案だし、体躯は貧弱だし、歌も歌えなければ踊りも踊れない。部屋もデスクも片付けられないし、記憶力というものにも欠けている。アルコールとギャンブルに依存しているし、算数も理科もできない。

……これらを掛け算していったら、マイナスの方で1万人どころか100万人、1000万人に1人くらいの無能者、生産性のない者、この世に必要とされていない者になるだろう。もしも、2つくらいなんらかのスキルがあったところで、とてもじゃないが追いつかない。現実として、おれに誇れるスキルはないのだし、おれは社会の底辺にいる。このさき食っていける可能性は低いし、蓄えも頼れる親類縁者もいない。おれは底へ底へと向かって堕ちていく。

そうだ、そこに陥った理由がなんとなくわかったのだ。0どころか、マイナスに向かって加速していたのだ。マイナスとマイナスを掛け算しても、プラスにならない。間違った方向、社会の底の方に、ただひたすら、掛け算を繰り返し、加速していく。そのうち、電信柱にでも衝突して死ぬ。いや、死ぬことができれば、まだ幸せかもしれない。ただ、心臓が動く、呼吸をする、そのことに拘泥して、今日のような寒い日に、公園の片隅でただ朝日を待って凍える、そんな日が来てしまうかもしれない。いや、それよりも、おれの安アパートはいまこの瞬間、ひどく寒くて、おれの指先は冷たいままなのだ。

 十歳か三十歳かで死ぬより六十歳か八十歳で死ぬほうがずっとつらい。生への慣れ、これが問題だ。というのも、生はひとつの悪癖、それも最大の悪癖なのだから。そうであればこそ、生を厄介払いするのがあれほど難しいのである。

――シオラン『四つ裂き刑』