父が急に呼吸困難になり、弟に救急車を頼んだとのこと。あまり健康ではない父とはいえ、たぶん、救急車を頼んだのは初めてだろう。
父はあらゆる病院と医師と揉めていて、もう来るなと言われるような迷惑な老人である。横浜でもかなり大きい病院でもこういうやりとりがあったらしい。
「もう当院には来ないと誓約書を書いていただきます!」
「おう、誓約書にはサインしてやろう。でも、患者の受け入れ拒否、それは違法だろう! 出るところに出るぞ!」
「……!」
という具合だ。こういう人間に存在価値はあるのだろうか?
幸いにしてというか、今回救急車が向かったのは、初めての病院であった。弟が救急車に同乗して、母が車で後を追った。このご時世、呼吸困難というとCOVID-19が疑われるところであるが、PCRなどは無かったらしい。
診断結果は心筋梗塞。心臓あたりの血管が壊死している、そういうやつだろう。べつに驚かない。おまけに、腎臓が1/3くらいしか機能していないらしい。肺には水がたまっている。
気管を切開して、人工呼吸、それでICU入りとあいなった。重度の糖尿病のケアをろくにしなかった自業自得といえる。意識があるのかないのかは知らない。戻らなくてもよい。
聞いたところによれば、家中を本棚に改造してしまったがために、階段もえらく狭く、救急隊員も苦労して運んだという。
おれは、ちょっと前にかなりの本を処分したと聞いていたので、まだそれだけの本があるのか、と少し喜んだ。父が死ねば、本の処分の前に見せてもらおう、そう思った。わりといい本があるに違いない。人間として最低でも、本を見る目はある。そういうこともある。
父とは二十年近く顔を合わせていない。父の世話、とうほどのことではないが、そっちは弟に任せっきりだった。弟はニートだ。おれは多少とはいえ働いて金を稼いでる。だから、べつに良心の呵責のようなものはない。まったくない。両親については弟に任せている。
あとは、後遺症とかやっかいなものなく、父が速やかに死に、おれは蔵書をあさり、一番安い方法で火葬祭、いや、火葬式でもすればいいということだ。火葬式にかかる費用すらもったいない。あ、明日は出かける予定があるし、明後日は菊花賞なので、せめて月曜日に死ぬくらいの頑張りは期待したい。そんなところだ。