父の病状(二十年ぶりの会話)

承前。

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何日前の何時頃だったか。夜、携帯端末が鳴った。おれは出た。テレビ・ドラマの誘拐犯がボイスチェンジャーを使ったような、くぐもった声が聞こえた。

「おい……わしだ……」

縁を切った父親だった。すぐにわかった。なぜおれの電話番号を知っているのか。というか、心筋梗塞で入院してICUにいるんじゃなかったのか。

「母さんか……、(弟)に代わってくれ……」

「いや、ここにいないから無理」

「……おまえ、どこにいるんだ……?」

「アパート、一人暮らしだから」

「アパート……? どこの……? じゃあ、母さんか、(弟)に……わしに、電話をするように、伝えてくれ」

「はい、わかった、それじゃ」

そうしておれは通話を終了させた。少し同様した。母に電話した。

「これこれこういうわけで」

「いや、携帯もってこいっていうから、差し入れたのよ。……あ、いま(弟)の電話が鳴ってるから、切るわね」

しばらくして、母から電話があった。

「なんであんたの番号知ってるのかしら……。着信拒否にしちゃいなさいよ」

 

というわけで、二十年ぶりくらいに父と話したが、まるで要領を得なかった。

べつにそれでかまわないのだけれど。

 

そののち、母と会った。病状について聞いた。心筋梗塞は電気ショックとステント。検査してわかった腎臓の悪化。鎮静剤を減らして意識回復。医師に対して人工透析を希望する。自分で立ち上がることも、歩くこともできない。

医師に対して、意思表明をしたというが、そのあとやり取りからは、正常な意識を取り戻していたとは言えないような状況らしい。「家に帰りたい」と言うが、「今のままでは車椅子で、家には階段があるので無理だ」と返すと、自分がどんな家に住んでいたかまったくわからないという。家族についても、母と、おれと、弟がいるということはわかるらしいが、亡くなった祖母や、自分の双子の弟(おれの叔父)については思い出せないようだ。

そのわりに、読みかけだった本を持ってきてくれなどと言う。自分がどんな家に住み、どんな病気で病院に運ばれたかも理解していないのに、本のタイトルと著者名を言ったという。家の中の本、というより、本の中に家がある、というような状況らしいので、探し出すのにそうとう苦労したという(おれはその家の場所すら知らない)。そして、スマートフォンBOSEのヘッドホン(そんないいものを持っているのか)、ラジオなどを差し入れたらしい。

本については、見つけたあと、母が病院に行って看護師さんに渡したという。すぐに電話があって、「なんで……顔を出さないんだ」と言ったという。「この状況(コロナ)じゃ無理でしょ」というと、「ぶらっと訪れたとかいえばいいのに……」などと言う。新型コロナウイルス流行という状況を、すっかり忘れてしまっているのだ。

 

それは、すげえなあ、と思った。

たとえば一年、一年でいい。一年、意識を失っていた人間が、昨日でも今日でも意識を回復する。なんで家族と面会できないのか? 道行く人はみなマスクをしているのか? テレビに出ている人間は透明の仕切板の間にいて、透明のプラスチックを顔に装着しているのか? ……アメリカではかつての戦争よりたくさんの人が死んでいるのか? 伝染病の流行? そんなことがあるのか?

これは、信じられんよな。そんなことを思った。

 

それはともかくとして、父はまだらボケ、あるいはまだら認知ということになってしまったようだ。医師の話によると、心臓への電気ショックで記憶が飛ぶこともあるという。それにしても、これはもう認知症じゃないのか。

そして、父は転院する。いつまでもICUに留まってはいられない。さっそく病院食に文句をつけてひと暴れしたようなので、病院にとってもいい厄介払いだろう。転院先の病院で、暮らす。あるいは、死ぬまで。透析に耐えられなくなって、暴れて死んだところで、それは自業自得というか望むところだろう。

おれは母に聞いた。

「なんかいなくなって気が楽になってない?」

「そりゃあね。(弟)も『コロナがあってよかった』ってのびのびしてるわよ」

弟はニートである。一日に六回くらい父から意味不明瞭な電話があるらしいが、それでも父が不在であることに晴れ晴れとした気分でいるという。

おれにはそれがよくわかる。まだ社会人としてまっとうに働いていたころ、父が出張で二、三日家を空けたときの、なんともリラックスして、自由な雰囲気。今、父が不在の母と弟の家にはそれが訪れているのだろう。それが続くことを、おれは一応は家族なので願ってならない。

 

父が死んだら、墓石に「人に嫌な思いをさせることについて卓越した才能を持った人間」とラテン語で刻みたい。もっとも、おれはラテン語を知らない。というか、日本の墓にそういうことを刻むスペースはない。

 

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