父よはやく死んでくれないか

承前。

goldhead.hatenablog.com

 

父が最初に運び込まれた救急病院から、リハビリ的なことをする病院に転院した。父は長年の宿痾の糖尿病をあらゆる医者と喧嘩した挙げ句、まったく治療をせずに(本来はインシュリン注射が必要)、心筋梗塞で救急車の乗員になった。そして、病院の検査で腎臓が三分の一も働いておらず、人工透析が必要ということになった。電気ショックと鎮静剤で朦朧としていたかもしれないが、父はそれに同意した。そして、救急病院からリハビリ的なことをする病院に移った。

また、喧嘩するのではないかという懸念はあった。そのとおりにになった。だいぶ記憶が飛んでいて、自分がなぜ病院にいるのかもわかっていないままだった。集団部屋のまわりがうるさいと怒鳴り散らし、家に帰ると言い張った。そういうことで、来てもらえませんかと母に連絡が入ったらしい。

おれは、「そんなの、鎮静剤と向精神薬眠剤で黙らせてくださいって言えばいい」と言ったが、そんなこと母はとうに言っていた。さすが母子。だが、おれはさらに、「意識がはっきりしているということにして、透析はしませんという同意書にサインさせろ」と言った。それなら三週間で死ぬ。それがいい。

自業自得で自身を害し、命惜しさに救急車を頼み、それでいて周りに迷惑をかける。おれも母も弟も看護師も同室の患者も医師も死ねばいいのにと思っているのに、当人は自分で立つこともできないのに家に帰りたいという。おれは行ったことがないが、車椅子では家にも入れないらしい。なんという愚かなことだろうか。そこまで他人に迷惑をかけて生きるだけの価値が自分にあると思っているのだろうか。とんだ思い違いだ。

とはいえ、これは怖ろしいことでもある。自分が死ななくてはいけない状況にあって、見苦しく自我を通そうとしてしまう可能性があるということだ。人間、わけがわからなくなったら、そうなる可能性もある。父も、気づいたら救急病院にいて、自身がおかれた状況も把握していない。コロナのことも忘れてしまっている。そうなったら、生に、生活に拘泥するものかもしれない。おれはそうなりたくはない。

そうなりたくはない、という人がほとんどだろうが、他人にとってはえらい迷惑である。他人に迷惑をかけてまで生きることはない。おれだったら、はやく死にたい。永遠の安楽につきたい。ところが、父ときたら見苦しい。とりあえず、応急の処置として、一泊八千八百円の個室に移したという。我が家には、一泊八千八百円を払う金はない。大部屋ならば自身の年金でまかなえる。ただ、大部屋の他の患者さんに迷惑をかけるわけにはいかない。身体拘束、向精神薬睡眠薬、なんでもいいから、大部屋で意識を失っていてもらいたい。

というか、早く死んでくれないか。それがいちばん楽なのだ。母にも弟にもおれにも病院にも。身体拘束、意識の削除、それができなければ死を。個室料金を払う金はない。他人に迷惑をかけられない。はやく、死んでくれ。

おれは内羽根の靴と黒いネクタイと白いシャツと黒い靴下を用意しているのだ。

f:id:goldhead:20201208201554j:plain