やや煽り気味にものを書いたら賛否両論も起こるだろう。そのくらいのつもりでいた。おれに同意する人もいるだろうし、反発する人もいるだろう。それでいい。でも、あまりにも曲解されているものについて、「黄金頭という人がそういう意見を垂れ流している」と思われるのはおもしろくないので、少し追記したい。もう、べつに上タンの話とかどうでもいいだろう?
空気を読むサービスの最大の例が「社会福祉」
救急車を頻繁に呼んじゃいけないってどこかに明文化されていますか?体調不良の判断って人それぞれですよね?ちょっと足が痛いから呼んじゃいけませんか?どれくらいの頻度で呼ぶなとか何か定義あるんですか?毎日体調不良なら毎日救急車呼んだっていいですよね!
おれが「ルールに書いてなければなにをしてもいい」と考えている人のようだ。おれはあくまで「少なくとも、焼肉屋の食べ放題のケースでは」と書いたに過ぎない。書いてないないことを読まれる、書いてあることを読まれない。ネットでは当たり前のことだ。おれだって同じ誤謬を犯していることだろう。しかし、これはおれに関することなので誤解をときたい。
少しでいいから考えてみてほしい。もしも、救急車と患者の関係を、食べ放題を設定した焼肉屋と客から敷衍させて考えるなら、「救急車(社会福祉)」≒「焼肉屋」で、「むやみに救急車を呼ぶやつ」≒「客」だ。
おれは、焼肉屋が上タンの上限を明記することが、この世の不幸を減らすことと書いた。同じように、救急車の側が救急出動の上限を明文化することが望ましいと考える。そんな明文化、あるのか? あるだろう。
東京消防庁<安全・安心情報><救急アドバイス><救急車の適正利用にご協力を!><救急車の適正利用のお願い!!>
たとえば東京消防庁のこのページである。「歩けるが、どこの病院に行ったら良いかわからないので救急車を要請した」、「本日病院に入院する予定が入っているが、自分で行くとタクシー代がかかるので救急車を要請した」、「子供が友達と遊んでいて転び、ひざをすりむいた。救急車で病院に行けば優先的に診てもらえると思い、母親が救急車を要請した。」、「眠れなくて、誰かに話を聞いてほしくて救急車を要請した。」、「料理中に包丁で小指を切った。傷口の血はすでに止まっていたが、整形外科の専門の医師がいる病院に連れて行ってほしい」……こんな具体例に「NO」を明示している。
これが焼肉屋であれば「食べ放題でも上タンは5人前まででお願いします」というルールの明示と同じである。
むろん、病気というものはどう転ぶものか素人にはわかりにくい。「こんなのは平気だろう」と思って、重病になるケースもある。とはいえ、上に挙げられたようなケースはどうだろうか。空気や暗黙の了解ではなく、簡潔に、当事者が、ルールを明示している。おれはこれを望ましいと思う。あまりにも違う次元の話であると承知の上で言えば、「上タンの上限」を明記しているのと同じである。しかも救急医療についてすばらしいのは、おれのように「どうも救急車を呼ぶのは気が引ける……」という小心者のために、♯7119が用意されている。
おれのなかのどこにも「ちょっと足が痛いから呼んじゃいけませんか?どれくらいの頻度で呼ぶなとか何か定義あるんですか?」などという意見は、ない。勝手にそう思われているだけだ。文章を書くというのはとても難しいし、おれの技量も足りないのだろう。誤解されてしまう。大食いをした人の側に立ったように見えるから、そういう人間の仲間だと思って擁護していると思われたのだろう。それはもう仕方ない。
とはいえ、考えてほしい。焼肉屋がおれが「そうであってくれ」と思うように、「上タンの上限を明文化」することによって、一番の制限を受けるのはだれなのか。それは「上タンを焼肉屋が耐えられる以上に食べようとする人間」にほかならない。いったい何人前が適正なのかわからないが、常識のある人が疑心暗鬼に陥ることもないだろう。暗黙の了解や空気ではなく、「これ以上は注文をお受けできません」と拒否できる。
救急車についても同じことだろう。実際に医療現場で医師がそうすることができるかどうかの実情はしらない。しらないが、「このような救急出動要請はルールに反しています」と述べることができる。「常識で察してくださいよ」ではない。「眠れなくて、誰かに話を聞いてほしくて救急車を要請」するのはだめですよ、といえる。
この明文化によって、迷惑な救急車利用者をゼロにできるとはいわない。いわないが、明文化されることに意味はある。いくらか効果があるはずだと信じたい。その程度には人間を信じている。
それの、なにが悪い。社会福祉のシステムが暗黙の了解や空気で成り立つと思っているのか。成り立ってきたと思っているのか。
はっきり言ってしまえば、この世にはわからんやつというのは存在する。だが、なにがどう「わからんやつ」なのかは、軽々しく決めるべきではない。それこそ空気で流されて叩くのは危険だ。
なぜならば、われわれ人類のすべては、いつどこで「眠れなくて、誰かに話を聞いてほしくて救急車を要請」するような人間になってしまうかわからないからだ。
あなたは倫理や論理、道徳について、自分は完璧に世の中のそれに従っていると断言できるのだろうか。たとえば、おれが「焼肉屋の食べ放題で上タンを何人前頼むのが暗黙の了解なのか?」と問うたところで、ろくな答えはなかった。
多くの人は、焼肉屋の採算について無知である。おれももちろん焼肉屋の経営をしたこともないし、焼肉屋で働いたこともない。その点で、おれは焼肉屋の食べ放題については無知蒙昧な一個の野蛮人だ。品や常識を言う人も、それに答えられなかった以上は、同じ暗闇に覆われているといっていい。
人間に、道徳器官など存在しない。ときと場合によっていろいろな前例や明示されたルールによって判断していかなくてはならない。
たとえば、日本国内で完璧な道徳性をそなえたといっていい人が、他文化の外国に行ってみたらどうだろう。食器を持ち上げるのがとてもひどいマナー違反になるかもしれないし、子どもの頭をなでるのが信じられないくらいの悪行になるかもしれない。
人間は全知の存在にはなれない。だから知ろうとするべきである。一方で、他者を迎えるにあたっては、自分たちの暗黙の了解やマナーを進んで知らせるべきである。それによって無用な摩擦(憎悪、嫌悪)が減って、WIN-WINといえるかどうかわからないが、不毛な不幸を減らすことができる。違うだろうか。
べつに外国でなくてもいい。日本国内という、わりと均一化された社会でも、わかりあえない存在というのはいるものだ。人によっては「焼き肉の食べ放題で上タンを50人前頼むやつ」かもしれない。それを「焼肉屋の食べ放題における上タンの上限」をわからない人間が叩くほど不毛なことはない。
人間は、いつどこで、ある集団にとって最悪で無知蒙昧の野蛮人になるのかわかりはしないのだ。その危なさは自覚しておいて損はない。
そのうえで、了見があるなら、それを述べろ。あいまいな空気に委ねるな。金がないというなら、金がないといえ。金がほしいというなら金がほしいといえ。おためごかしはやめろ。「察して」ちゃんはやめろ。それはおれがずっと思ってきたことだ。
おれのいう「人殺しの顔」は「焼肉の食べ放題における上タンの上限」に通じる。明示しろということだ。同じといっていいかもしれない。これ以上、自分の富を奪うなというなら、そう言え。
そこからが話し合いだ。それは苛烈なものになるかもしれない。しかし、空気で圧殺されるよりいくらかましだ。お互いの本音をさらしあえるほうがまだましだ。さらに進んで法にゆだねるなら、それも仕方あるまい。私刑よりずっとましだ。少なくとも今の日本の司法だって、私刑よりましだ。空気で押しつぶす暗黙の私刑よりましだ。
たとえ、結局は金がすべてを決めるとしても。
その結果、社会がよくなるとは言い切れない。しかし、暗闇に覆われているのに「空気を読めると思っている」派が、いつわりの正義で少数者を棒で叩いて殺して終わるよりましだろう。
これが理想的な社会に向かって議論を深める物言いかどうか、おれにはわからん。しかし、おれはこう思う次第だ。あんたはどう思うだろうか。