ビギナーズ・クラシックス日本の古典『梁塵秘抄』を読む

 

石牟礼道子伊藤比呂美の対談本を読んだ。その対談の真ん中に置いてあるような本が『梁塵秘抄』だった。

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おれは『梁塵秘抄』を読んでみっか、と思った。もちろんビギナーなので、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックスを手にとってみた。

というか、手に取る時点でおれは本棚のどこを探すか大間違いしていた。おれは『梁塵秘抄』は仏教関連本と思い込んでいたのだ。違うのだな。あくまで「今様を残す」という書物(の一部)なのだ。その今様のなかに仏を歌ったものがあるのだ。後白河院、ごめん。

 おほかた、詩を作り、和歌を詠み、手を書く輩は、書きとめつれば、末の世までも朽つることなし。こゑわざの悲しきことは、我が身隠れぬるのち、とどまることのなきなり。その故に、亡からむ跡に人見てよとて、いまだ世になき今様の口伝をつくりおくところなり。

ここで惜しいのは、楽譜が残っていないことである。べつに西洋的な楽譜ではない、お経のなんか記号みたいなのあるでしょ。ああいうの。たぶん、ないよな。それでも、今様のいくらかは残っているのかな。なんか「こゑわざ」を読み物だけでなく残せなかったんかな。

で、『梁塵秘抄』で一番有名なのはこれだろう。

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ

(三五九)

大河ドラマ平清盛』を思い出すが、あのメロディも吉松隆の作曲でしょう。

で、仏教よりだな、というのをいくつか。

仏は常にいませど 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ

(二六)

真夜中でもなければ夕まぐれでもなく、暁の夢に見る仏。まさにほのかな感覚がある。

仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

(二三二)

これは対談にも出てきていたっけ。仏も昔は人なりき、の仏は釈尊その人のことだろうか。ちなみに、釈尊現れるまで永遠に近い間、生まれ変わりを繰り返していて、その間に無限に近い人に出会っているのだから、われわれはみな仏に縁があるのだとかいう考え方もあったっけな。いずれにせよ、「もう仏だ」というのはやはり盤珪禅師だし、みんな盤珪読めばいいと思うので読んでください。鈴木大拙編校です。

 

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1)

  • 作者:永琢
  • 発売日: 1987/09/01
  • メディア: 文庫
 

 

でもって、もうちょっと読みたいので、ビギナーズ・クラシックス以外にも手を出してみるかとか思っている。しかしまあ、五・七調はともかく、こんなのどんな節がついていたのか気になるよな。

よくよくめでたく舞ふものは 巫 小楢葉 車の筒とかややちくま 侏儒舞 手傀儡 花の園には蝶 小鳥

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