川上弘美の『龍宮』を読んだ。
というか、この日記の読者の方から「北斎」を読めと勧められたので、読んだ。
蛸に教訓を垂れられた。私は神妙そうに頷いた。
「そのまま岸に着き、船は港に舫われた。夜になってからおれは上陸した。蛸は動きがはやい。人間の畑の芋がうまいと、かねがね聞いていたので、芋を食いに畑へと走った」
芋はうまかったですか。精はつきましたか。私は聞いてみた。
「芋は固かった。食いではある。栄養になったかならなかったかは、知らない。そんなことどうでもよろしい。畑には女が一人いて、いやになまめかしい様子だった。おれは女に巻きついた」
まきついた。おむがえしに、私は言った。
「巻きついた。女はよがった。女など、かんたんなものだ。足さえ多ければ、かんたんなのである。今のおれは足が少ないので、いくらか難儀すぐるが、それでも女のことならば、おれにまかせたまえ」
――「北斎」
なるほど、これはすごい。なにかだれきったおっさんが蛸であって、北斎の蛸なのである。それが「酒をおもってくれ」というのである。わけがわからない。それをマジック・リアリズムとでもいうべきだろうか。おれには学がないのでわからない。しかし、たしかに「北斎」はおもしろかった。なさけない男のなさけなさをなさけなく描いているようでもあった。
「龍宮」はロリババアと言えるような奇妙な老女のエロティックな話。「狐塚」は後期高齢者と中年女性の妙な関係。この老人の描かれ方はいい。「荒神」は主婦の奇妙な生活。「鼹鼠」とはモグラの意味だが、人間の社会に紛れ込んだ「アレ」を鈎でつまんでは地下に持ち帰る。鼹鼠は会社づとめをしている。「轟」は奇妙なきょうだいを描いた話。これもエロティックであり、近親相姦を描いている。「島崎」も人の寿命がえらく伸びたりしている妙な世界を描いていて、やはり近親相姦が問題になっている。「海馬」は女性という立場を極端に描いてみせている。むろん、主人公は人ならざるものだ。
全体的に、人ならざるものと人の関わりについてだが、そこに表されているのは、女性というものの立場の極端な姿のようでもあり、とはいえ、そんなことも超越するような飛び方であって、なるほど川上弘美はやべえなと思った。
おれはあまりジェンダーの問題については理解していないのだが、「これは女性の立場で描かれたなにかだ」という思いは抱いた。が、そんなことどうでもいいともいえる。この奇妙な世界を味わうのに、そんなことはどうでもいい。どうでもいいといっていいかわからないが、そんなところにはとどまらない。それだけの飛び方がある。おれはそう思った。おれの知らない、すごい作家が世の中にはたくさんいるのだと思った。
なんか馬鹿みたいな結論だが、正直なところ、そう思っている。次の本を、読み始めている。