斎藤環・與那覇潤『心を病んだらいけないの?』を読む

 

医師と当事者

おれは精神科医の書くものが好きである。一般人、患者向けに書かれたものでもよいし、同業者に向いて書かれたものでもよい。後者はもちろんむずかしいこともあるが、なにやら「相手の手の内を知る」ような気になるのもたしかである。

おれは同病者の書くものが好きである。具体的に言えば精神病を患っている人の書くものである。できることなら自分と同じ双極性障害躁うつ病)II型だとなおさらよい。「こうすればよくなった」という体験談でもいいが、べつに前向きな話でなくともよい。こっちはこうだ、そっちはどうだい? という単なる興味である。

となるとこの本、『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』はベリーベリナイスな本ということになる。斎藤環精神科医だし、與那覇潤は双極性障害を患った人である。

が、やっぱりなんだ、與那覇さんはあれだ、なんというか真面目なエリートだなあという感じで、ちょっと面白みに欠ける。この「面白み」というのは、知的好奇心に対するそれではなく、単にクスリと笑わせるという方向のそれであって、まあべつにどうでもいいといえばいいものである。

……ということは前も書いたか。

goldhead.hatenablog.com

 

とはいえ、やはりなかなかに興味深い本であって、気になった発言を読み返せば與那覇さんの方が多かったりする。

 

発達障害

やはり精神の話が面白いかな。たとえば、平成のメンタルに対する興味はサイコスリラー・ブーム(多重人格)から始まって、次にSSRI解禁からの「新型うつ」時代、最後は「発達障害」ブームと三つに分けられる、とか。

発達障害ブームはいまも続いているか。

斎藤 率直にいって私は、目下の日本はあきらかな「発達障害バブル」だと考えています。おいおい説明しますが、専門家でも鑑別が困難なカテゴリー(病名)があまりに安易に多用されている。精神科の臨床現場ですら、かなりの誤解や混乱が見られます。

感情労働の拡大により、昔気質の職人風の付き合い下手が「コミュ障」、「アスペ」扱いされてしまう問題(このあたりはシロクマ先生がよく書かれているように思うが)。そのあたりに「発達障害」という概念が使われている、と。

一方で、コミュニケーションに難のあるような、そういったタイプに天才が同居している、というステロタイプも生まれた。ジョブズザッカーバーグなどがそのように描かれている。イーロン・マスクですらそんなエピソードが語られる。フィクションでも増えている、そういうところもある、と。

なるほどなー、と。あと、ADHD、ADD、そのあたりのDSMでの扱いなどの推移については斎藤先生が語っているので読んでください。

でもって、そんでもだいたいの人間は天才ではないわけで、発達障害が「あきらめる装置に? という話になる。ひと世代前は(疑似)脳科学の言説が「あきらめる装置」だったのが、いまは発達障害がそれになっている、と。

斎藤 ……患者さんが「自分は障害者だから、これ以上発達することはできない」「どうせできないんだから、何も変えなくていい」と自らの成長に見切りをつけてしまう。これは精神医学会が、発達障害は「器質性の脳機能障害」だと定義していることにも原因があります。ほんとうは発達障害の原因は複合的で、まだ十分に解明されたとは言い難いのですが……。

一方で、発達障害の誤解には「親の育て方が悪かった」、愛着障害だというものもある。その点では、脳の器質だということになると、親は救われる。

 

斎藤 その点は確かにそうで、「あなたの育て方が悪かったから、おかしな子になった」といた批判から母親たちを救う効果はあったかもしれません。

 しかし、私が尊敬する精神科医神田橋條治さんの名言「発達障害は、発達します」にもあるように、発達障害とは「能力がこれ以上伸びない」という意味ではありません。むしろ、ストレングス・モデルのように、本人のポジティブな特性を伸ばしていくことが大事になる。発達障害に「なった」ことの責任を問う必要はありませんが、発達障害「である」ことを踏まえて今後どう成長をしていくかを考える視点まで、失われてしまっては困るんです。

なるほどー。で、ところで神田橋條治先生の名前が出てきたな。尊敬していたのか。あと、岡田尊司先生(発達障害のほとんどは愛着障害だと主張)の名前も與那覇さんから出てきたが、斎藤先生は「うーん、岡田さんは時々、あきらかに偏った主張をすることがあるんですよね」と。

 

AIの話と国語教育

あと、いきなりAIの話になる。AIもバブルだという。意外な名前が出てきた。小保方さんだ。小保方さんはAI的だという。自分のやっていることがなにかわかっていなくても、「こういうデータを出せば周りの人は喜ぶ確率が高いな」という思考だったのではないか。あるいは、学生でも「これを入れておけば、先生がほめてくれそうな用語・要素」をレポートや卒論に入れるとか、そういうのがAIっぽいと。

つまり、「AIの人間化ではなく、人間のAI化」が起こっていないか、と。

で、話はまたちょっと飛んで、『AI vs 教科書が読めない子どもたち』では、そのように、AI的にしか教科書を読んでいない子供たちの話が出てくるという。「ペリー」という単語を見れば「開国してくださいよ」日米和親条約」と書けばだいたい当たるけど、両者の関係を理解していないというような。

そこで著者の新井紀子さんは論理的な読解力と思考法を国語教育で鍛えるべきだと論じたと。それが突き進んで、「なぜ論理教育が軽視されてきたのか? 国語の中身が文学鑑賞に偏っていたからだ。文学作品を教材から外せ!」みたいな動きが出てきたと。

これについてのやりとりが興味深いので、少し長いが引用する。

 

那覇 情けないのは、これにきちんと反論できない人文系の識者です。「日本の伝統文化が廃れる」「文学なしの人生は味気ない」みたいなことしか言えない。どうして「意味を理解する能力こそが、AIにはない人間の強みだろう。文学作品の読解こそが「意味」を扱う力を育てるんだ」とはっきり言えないのか。

 ここでいう意味とは「ニュアンス」と言い換えた方がわかりやすいかもしれません。小説の文章では直接「愛はすばらしい」とは書かない。文字面には一切書いていないけれど、行間から湧きあがるニュアンスで「ああ、人を愛するって大切だなあ」と伝えるのが、文学の表現ですが、そういうコミュニケーションのチャンネルを潰したら、大変まずいことが起きるのはあきらかです。

 

斎藤 同感ですね。人文学の存在意義は「意味」と「価値」を根拠づけることだと私も考えています。どちらも科学というOSでは扱えない。

 価値を科学的に根拠づけよう――つまり「道徳的に望ましい営みには、すべて自然科学的な背景があるんだ」と強弁しようとすると、『水からの伝言』やEM菌のように、必ずトンデモ化してしまう。疑似脳科学や一部のエコロジーにもそういうところがありますし、近藤誠さんの「がんとは戦わない」や反ワクチン運動のような、内実は主観的な人生論にすぎない疑似科学が、実際に被害者を出しています。

 価値を論理的につきつめると、必ず無根拠(=絶対に誰もがそうだ、とは主張できないという限界)にゆきあたりますが、その無根拠さを適切に扱えるのは人文学、とりわけ文学しかないと思うんですよ。生きる上で欠かせない合理が「文明(科学、工学)」なら、生きる上で欠かせない、"非合理"が「文化(宗教、文学」というのが私の持論ですから、與那覇さんのおっしゃる「ニュアンス」も、非合理の一種ですね。

なるほど、無根拠を扱うこと。あつかわずには人間は成り立たないということ。それを学ぶには文学も必要であるということだ。

「論理国語」の教科書に小説を掲載した出版社があったという話だが、そういう考えに基づいてのことだろうか。だとすれば悪くない話のように思える。

小説差し替え、削除示唆も 検定やりとり「極めて異例」―論理国語:時事ドットコム

 2社は桐原書店数研出版桐原書店は、評論のテーマに沿う小説3編を参考資料と位置付けて掲載した。文科省は「説明文や資料などは主たる記述と適切に関連付けて扱う」とする検定基準に抵触すると指摘。「評論の内容理解を深めるための適切な学習活動になっていない」とする意見を付した。

 

……と、話はあちらこちらに飛んだが、本書はほかにもいろいろな現代の問題について語られているので、読んでみてもいいんじゃないでしょうか。宮崎アニメが素朴な労働肯定をベースにしているとか、言われてみたらそうだなあとか。そしてまた、まだこの国には「日本教」の考え方が生きているのだとも思ったし、まあそんなところ。「自然」のあやうさ。「共感なき同意」ではなく、「同意なき共感」を。あと、斎藤先生がすすめているオープンダイアローグの話とかか。あと、労働について。それについてはいずれ。