日本共産党の話もエートスが問題なんだ、たぶん

寄稿いたしました。寄稿したのよ。

blog.tinect.jp

読んでいただけましたでしょうか?

読んだー?

読んだね。

というわけで、小室直樹にはまっておりまして、ほかに『経済原論』や『イスラム原論』なども読んでおります。まあ、経済は「数学が苦手な人は読まなくてもいいよ」ゾーンとか作ってくれるけど、やっぱり難しいのでようわからんかった。でも、日本は成功した社会主義国だったが、それゆえにソ連と同じように不況に陥ったのだ、というのはわかった。

 

 

 

 

まあ、それにしても、エートスが問題なんだよな。小室直樹エートスを連呼する。というか、いろいろな本で同じことを連呼するので、「要諦」をつかめたような気になる。そういう魔力がある。

それはそうと、エートスってなんだ。Wikipediaでも見るか。

ja.wikipedia.org

社会学における」方だな。

エートスを、社会認識の基軸として捉え返したのがドイツの社会学マックス・ヴェーバーである。ヴェーバーによれば、エートスは、以下の三つの性向を併せ持つ。

・生活態度 - 古代ギリシア語のエートスが、「習慣」を意味しているように、エートスは、それにふさわしい行為を営む中で体得される「習慣によって形作られた」行為性向である。社会化によって人々に共有されるようになった行為パターンないし生活形式ともいえよう。
・心的態度 - しかし、ある行為がいくら機械的に反復されてもエートスは作り出されない。その行為性向は意識的に選択される必要があるからだ。この「主体的選択に基づく」行為性向がエートスである。
 ・倫理的態度 - そして、この行為を選択する基準が「正しさ」である。「正しい」行為とは、内在性の基準(行為に固有の価値)が選択され、(目的達成の手段ではなく)行為それ自体が目的として行なわれるような行為のことである。外的な賞罰なしには存続しえない行為性向はエートスではない。したがって、エートスの究極的な支えは個人の内面にある。

こうした行為性向の中で、習慣の契機が強調されると、エートスは、文化人類学における「文化パターン」概念に生まれ変わり、選択性あるいは主観性の契機が強調されると、エートス倫理学における倫理・道徳概念へと転化することになる。これに対し、ヴェーバー社会学は、倫理的態度を生活態度の特定の方法的・合理的な在り方と捉えることで、以上の性向を総合的に認識しようとするものである。

なんやようわからん。でも、小室先生はヴェーバーの比較宗教学から話を持ってきているので、エートスが重要やという。行動様式。これが宗教を形作るものやと。文化なんやと、なんか、そんなこと言うてた(ような気がする)。

で、おれがこのところ「これはエートスの違いによる話ではないか」と思ったことがある。日本共産党の除名問題だ。一般的に左よりと言われる新聞まで共産党を批判した。それに対する共産党の説明がどうも世間に通じない。悪い印象を強めているように見える。なにかこう、価値観の対立以前に、まず、使っている言葉の意味自体に共産党と世間の認識のずれがあるように感じる。それこそ、出発点からなにからみんな違っているように見えるのだ。「共産党としては理路整然と自らの意見を主張しているつもりなのだろうが、なんか根っこのところで共有していないなにかがあるような気がする」という感じ。

で、おれは「エートス」という言葉が思い浮かんだ。

 

日本共産党の党内民主主義について - かみや貴行のブログ 1%でなく99%のための福岡市政を

どこかの市議候補予定者よりも、ずっと丁寧に日本共産党エートスを説明してくれている。それを支持するかどうかは別として。

2023/03/06 14:11

 

どこかの市議予定候補者は、こんなふうな発言をしていた。

たぶん、この人のなかではなにか筋が通っている。ただ、説明が足りない。多分、「トップ」、「組織」、「民主的」という言葉の捉え方の根本から違う。社会認識の違い。それがある。だから、説明を尽くされても、日本共産党員でなければわからない、ということもありうる。もちろん、説明を尽くされて、言っていることを理解したうえで、同意できないこともあるだろう。

しかしなんだ、日本共産党員のエートスというものがあるとしたら、そうでないおれのエートスとはなんなんだろうか。思わず「普通の日本人」とか言いたくなる衝動もあるが、それってなんなんだ? あるいは、「日本教」の教徒ということになるかもしれない。それについてはいずれなにか考えてみたい。いずれにせよ、「何教徒だろうが根っこは同じ人間だ」という日本人的な考え方は日本国内ですら通用しなさそうだとは思う。以上。