ノーベル文学賞は強い クヌート・ハムスン『飢え』を読め!

 僕は自分をこの昏睡に陥りかけた世界のただ中で、病いにとりつかれている死にかけた一匹の虫のように感じた。僕は非常な恐怖を抱いてベンチを立ち上がり、荒々しい足取りで二、三歩歩きかけた、いや、いけない! 僕は思わず叫んで両手を握りしめた。こんなことは、もうおしまいにしなけりゃいかん。そこでまた腰をおろして、鉛筆を手に取り上げ、真面目になって一編の論文を書き上げようとした。鼻の先に未払いの部屋代をつきつけられていては、へこたれてばかりいられるものではない。

 徐々に考えがまとまりかけた。僕はそれに乗じてさらさらと鉛筆を動かして、序章にあたる十二ページは念を入れて書いた。これならば、あとで僕が適当と思い次第に、旅行記の初めにでも、政治論文の初めににでもくっつけられるだろう。これは何につけたところで、すばらしく立派な書きだしであった。

 そこで、僕は主題として取り扱うべき人間なり事件なりを捕えようとして捜したが、遂に一つも見出すことができなかった。こんな無益な努力をしているうちに、僕の考えは、また乱れてきた。僕は自分の脳味噌がすっかり狂ってしまい、頭が洞(うつろ)になり空になって、もう中味も何もなく、軽々と肩の上に乗っかってきてるのを感じた。僕は頭のがらんとした空虚さを全身で感得した。まるで頭のてっぺんから足の爪先までが、がらんどうになった感じだった。

 主よ、父なる神よ、と、僕は苦しくなって叫んだ。それ以上のことは言えないで、幾度も幾度もこの叫びを繰り返した。

 

 

というわけで、おれはクヌート・ハムスンの『飢え』を読んだ。クヌート・ハムスンを知っているだろうか。おれが知ったのはつい最近のことだ。チャールズ・ブコウスキーの書簡集だ。ブコウスキーが影響を受けた偉大な作家として、ファンテやセリーヌとともにその名があったのだ。おれはハムスンなんて聞いたことがなかった。

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クヌート・ハムスン(Knut Hamsun, 1859年8月4日 - 1952年2月19日)は、ノルウェーの小説家。1920年に作品『土の恵み』でノーベル文学賞を受賞した。世界的な名声を得ていたがナチスを支持し続けたため戦後、名誉は失墜した。

 

なんや、セリーヌと同じパターンやないか……。でも、ナチスが来たときはおじいちゃんになっておって、ヒトラーと会見したときも揉めて会見打ち切りになっとんじゃ。

 

と、適当にかばったところで、ハムスンの『飢え』である。さすがに1890年の異国の作品だけあって、ちょっと最初の最初は入りにくかったが、なに読み始めてみれば「こりゃあブコウスキーも好きそうだな」というもので、一気に読んでしまった。

 

主人公は飢えている若者。金がなくてすみかを追い出される。自分の文才を信じていて、たまに新聞社に文章を売って糊口をしのいでいる(あれ、おれ?)。でも、もうしのげないような状態になる。質屋に服のボタンを持って行って金になるだろうか? 人から借りた敷布は金になるだろうか? ああ、腹が減った。そういって道でリンゴの芯や鉋屑(かんなくず)を拾って口にしたりする。

 

……一方で、なんやかんやでいくらか金が入ってきても、妙な誇りと正義感で、そいつを手放しちまう。たとえば、雑貨屋で夜原稿を書くためのローソクを「借り」に行って、店員が勘違いして大量のお釣りを手渡してくる。そのときは受け取ってしまう。かなり助かる額だ。ビフテキを食って、ビールを飲んだ。しかし。

 

けれどもその金は僕のポケットの中で、いまは少々荷厄介になっていいて、僕に平和を与えなかった。僕が自分自身を吟味してみると、以前僕が窮迫しながらも正直に生きてきた時の方が幸福だったことが、この上もなくはっきりわかった。

宿なしのくせにこんなことを思い始める。

 

 僕は海鼠のようにぐでんぐでんに酔っぱらっている感じだったが、突然飛び上がって、象の看板をかけた薬屋のそばの菓子屋の婆さんのところへ行った。僕はまだ不名誉から逃れることができるのだ。まだ遅すぎはしないのだ。僕は全世界にそれを示さねばならない! 僕は途中で一オーレも残らないように、金をしっかりと握った。それから婆さんの店台の前に行って、買い物でもするようにいかがみこむと、いきなり婆さんの手の中に金を投げこんだ。そして一ことも言わずに、すぐにその場を去ったのである。

 

そして、金を見ず知らずの婆さんにくれてやってしまう。その心の尊さと異常さよ。そしてさらに、あとから雑貨店に行ったり、この婆さんのところに行って菓子を恵んでもらおうとすらする。もちろん、その内面も複雑だ。その複雑さがモノローグの、あるいはもうひとりの自分とのダイアローグのように繰り広げられる。もちろん、肉体は限界を迎えていく。飢えの描写も見どころだ。

 

 大市場に来て、僕は教会の傍のベンチに腰をおろした。やれやれ、なぜこんなに世間が暗くみえてきたのだろう! 僕はあまりに疲れていて、泣くにも泣けなかった。何をしようとする力もなく、ただそこに飢えてじっとすわったまま、この上もない責苦にあっていた。胸はまるで火がついたようで、不思議な苦痛が内部で燃えたぎっていた。鉋屑をしゃぶっても、もう約に立たなかった。あごが無益な仕事に疲れてしまったので、僕はもう止めるしかなかった。諦めたのだ。そればかりではない、路ばたで拾ってさっそくかじりだした林檎の褐色の芯が、吐気を催さした。僕は気分が悪くなり、手頸の静脈が青くふくれ上がってきた。

 一体僕は何を期待していたんだろうか? 僕の生命をほんの二、三時間長らえさせるにすぎない一クローネの金を求めて、終日駆けまわっていたのだ。避け難い運命が一日早く来ようが、遅く来ようが、同じことではないのか? もし僕が人並みの人間なら、僕はとっくに家に帰って、運命を待ったのだろう。

 

ここまで、追い詰められても、こいつは、しかし、自分の理想やロマンを捨てられない。ちょっと捨てようと迷ったりして、ちょっぴり捨てたりもするけど、結局それに殉じる。殉じるといっても、べつに死にはしない。わりとハッピーなエンドかもしれない。そのあたりは読んでほしいが、ちょっぴり読むのが面倒な作品かもしれない。

 

でもまあ、面白かったよ、『飢え』。ノーベル文学賞をとる作家の作品はおもしれえ。いや、あんまり読んだことないからわからんけど、そう思った。おれは権威主義だ。ともかく『飢え』は「意識の流れ」小説の先駆的存在でもあって、いろんな作家に影響を与えた。ブコウスキーはその一人に過ぎない。しかしよ、1890年の作品だぜ。でも、色褪せないこの内容。なんと現代的というべきか、普遍的というべきか。人間の内面というもののわからなさ、複雑さを描いてみせた。一方で、筋書きとかドラマとか、そういうものを置いてきている。そのあたりがやっぱり現代的なのかもしれない。べつに現代的だから優れているとかいうわけじゃねえが、時代を貫いてここまで届いてるってことだ。おれはハムスンをもっと読みたくなった。でも、肝心のノーベル文学賞受賞作品の『土の恵み』が読めそうにない。英語が読めればどうにかなりそうだが、おれは英語が読めない。だれか、どうにかしてくれ。

 

 

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……文庫本の古本。買えない。

 

 

はい、正直に告白しますと、これを借りて読みました。解説とか、ノーベル賞の授賞式のスピーチとかも読めます。

 

 

これは比較的あれなので、次読みます。