日本代表のグループリーグ突破は他力本願ではない

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2大会ぶりの決勝トーナメント進出を決めた日本の西野朗監督は「こういう形で勝ち上がることはチームとして本意ではないが、成長していく上では大切なことだと思う」と話しました。

他力本願とは親鸞の思想においてそもそも……という話ではなく、一般的に使われる他力本願。

一見すると、自分が1点返すことでグループリーグ突破を目指すのではなく、裏の試合が「そのまま!」(競馬の最後の直線的叫び声)で終わってくれるのを頼みにした他力本願にも見える。

が、メキシコの場合(自分のところの試合が3-0で勝ち目ほぼなし、裏の韓国がドイツ相手に引き分け以上で勝ち上がれるという状況)とは違って、これは自力で選んだ戦術、あるいは戦略なのだ。徹底して自力だ。自力で博打を選んだ。

無論、裏の試合の試合の情報は逐一伝わってきていただろうし、勝ち上がり条件のシミュレーションも十全に行われていたと思う。そのうちの、あまりよくないケースが出現してしまった。

そこで、裏の膠着に賭けて出た……やはり監督の決断、自力である。野球に例えれば(この例えを嫌うサッカーファンもいると思うがゆるしてくれ)、「一塁が空いて打席には強打者だけど、申告告敬遠はしないで、ストライクゾーン勝負は避けて場合によっては歩かせよう」とかいう中途半端な判断はしなかったのだ。そして、そういう場合は不思議とストライクゾーンの打ちどころに甘い球が行くものなのだ。西野監督ははっきりと歩かせた。リスクを取った。そして勝ちを……拾った。いや、ひょっとしたら裏の情報解析も事前に相当していたみたいな、情報戦の勝利とかいう可能性もあるだろうが……、やっぱ博打ではあるよな。

こういうケース、サッカーに限らずスポーツのいろいろの局面で出現するものだろう。あるいは、スポーツに限らず出現するものかもしれない。ただ、当事者にとっては一回こっきり、二度目はないシーンなのである。さらに言えば、舞台はサッカーの最高峰の一つであるワールドカップ。そこで、もしもコントロール不可能な裏でなにかあったらどれだけぶっ叩かれるかわからない決断をした。こいつはすげえな、と思った。「できたら点を取れたらいいけど、決して失点とカードをもらわないように慎重に攻撃して」という中途半端をしなかった。いやはや。

で、勝てば官軍ではないけれど、勝ってしまったのだから、もう、これはこれとしか言いようがないだろう。状況的に見ていて心臓によくないし、延々とパス回しするさまは見ていて面白いものでもなかった。スポーツ精神の美学でいけば(そんなものがあるとして)、攻めてこないポーランドとの無気力相撲、談合的な様子も褒められたものじゃないと思う。ひょっとしたら、これでまたなにかルールが変わるかもしれないとすら思う(フェアプレーを順位の優劣に反映させるのは悪くないと思うけど)。

まあ、ともかく、これでわやくちゃだった日本代表が、わやくちゃなままに決勝トーナメントに進む。メキシコほどではないが、やはり拾った命だ。なんかもう、やるだけやってくれよ、と思う。もうノックアウトステージだから、やるしかないんだけどな!

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goldhead.hatenablog.com……しかし、二日連続でこういうことになるとは。あ、おれは四年に一度メキシコを応援するマンなので。

goldhead.hatenablog.com

……それに対するサッカーファンとは言い難いおれの感想は「君らはそんなにハリルホジッチを愛していたのか」である。ファン心理とはわかりにくい。そして、「応援する気をなくした」といっていた多くのサッカーファンがどういう心理状態でワールドカップを観戦するのだろうか。それは、「新井の去ったカープなど応援したくない」と思った、あのときのおれと似たようなものだろうか。

「それ」はハリルホジッチ解任劇に巻き起こった非難の嵐である。いいのか悪いのか、日本サッカー史のなかにおいて、こういう異常事態も一つの経験なんじゃないかね、というのは甘い上から目線かな。「ラッキーで勝ち上がることで日本のサッカーはさらに後退する」という声もあるようだが、はたして。

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関係ないけど、他力本願。

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 私の信念は、ドンナものであるかと申せば、如來を信ずることである。其如來は私の信ずることの出來る、又信ぜざるを得ざる所の本體である。私の信ずることの出來る如來と云ふのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら獨立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本體が、即ち如來である。私は何が善だやら何が惡だやら、何が眞理だやら何が非眞理だやら、何が幸福だやら何が不幸だやら、ナンニモ知り分る能力のない私、隨つて善だの惡だの、眞理だの非眞理だの、幸福だの不幸だのと云ふことのある世界には、左へも右へも前へも後へもドチラへも身動き一寸することを得ぬ私、此私をして虚心平氣に此世界に生死することを得しむる能力の根本本體が、即ち私の信ずる如來である。私は此如來を信ぜずしては生きても居られず、死んで往くことも出來ぬ。私は此如來を信ぜずしては居られない。此如來は私が信ぜざるを得ざる所の如來である。

「我は此の如く如来を信ず(我信念)」

 

たりきには じりきもなし たりきもなし ただ いちめんの たりきなり

浅原才一