ブログを書くということに対するたたずまいについて

f:id:goldhead:20200108003547j:plain

年末、いつもの図書館で少し時間を潰す必要があった。一階の文庫棚からなにか適当な本を選んで、椅子に座って読もうじゃないかということになった。そのときに目に入ってきたのが『雑文集』と背に書かれた本。ちょうどいいじゃないか。

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/10/28
  • メディア: 文庫
 

というか、ここのところずっと読んでいない村上春樹の本だった。デビュー直後の短いエッセイから、イスラエルでのスピーチ、ボツになった原稿などが収められている。やはり村上春樹は読みやすいので、これがすいすい読めてしまう。「そろそろ時間かな」というときには半分くらいまで読んでいたので、そのまま借りてきた。

中に「翻訳の神様」という一編があった。どこに書いたものかは忘れたが、ともかく翻訳について書かれていた。そこに、こうあった。

 ここに収められたレイ・カーヴァーやティム・オブライエンの作品からも、翻訳作業を通して、僕は大事なことを数多く学んだ。彼らから学んだもっとも大事なものは、小説を書くということに対する姿勢の良さだったと思う。そのような姿勢の良さは、必ず文章に滲み出てくるものだ。そして読者の心を本当に惹きつけるのは、文章のうまさでもなく、筋の面白さでもなく、そのようなたたずまいなのだ。僕が心がけたのは、彼らの「姿勢の良さ」を、できるだけあるがままに率直に日本語に移し替えることだった。うまくいっているといいのだけれど。

おれは小説を書いてはいない。ブログを書いている。いまどきブログを読んでいるあなたも、ブログを書いているかもしれない。もっと短いことをつぶやいているかもしれない。いずれにせよ、それはだれかに読まれている。

もしもですよ、それによっておれやあなたの姿勢やたたずまいが見透かされているとしたらどう思いますか。ひょっとしたら、小説家という魔術師たちの魔術ごしに見るよりも、読者にはよく見えてしまうかもしれない。姿勢の良し悪し、たたずまいの有り様。

まあ、村上春樹は「姿勢の良さ」が「滲み出てくる」と言っている。姿勢が歪んでいたり、だらしなかったりすると、文には出てこないかもしれない。文は人なりというけれど、為人を文に出すことはちょっとむずかしいことかもしれない。まあそもそも、文は人なりという言葉が正しいのかどうかわからない。でも、人が文になって構築されているのがインターネットというものだ。いや、絵や音楽や動画で表現する人たちも少なくないか。それでも、たとえばVtuberという人たちも、やはり「中の人」の姿勢の良さやたたずまいを見定められているのかもしれない。

村上春樹はべつのところで、小説家というものについて、人類が物語を語り継いできたものであり、それが結局社会にとって役に立たなくても、無力でも、それでも継続してきたものだという。そしてこう言う。継続性は道義性のことであり、道義性は「精神の公正さ」のことだと。

ここで言う道義性とはなんだろうか。おそらくは社会的な正義に則ったという意味では「ない」だろうし、PC的な基準を満たしているといった話でも「ない」だろう。そして、精神の公正さというものは、必ずしも人間的に間違っていないとか、善人であるとかいう意味でも「ない」だろう。おれはそのように想像する。ただ、書き手のなかに、その人なりの公正さがある。感じられる。そういうものだろう。

そう考えてみると、おれが好きな小説家、いや広く物書きというのは、社会的にはだめなやつだろうが、ろくでなしと呼ばれようが、なにかしら「精神の公正さ」を持っているように思えてくる。むしろ、そうじゃなくては、その人から滲み出てくるものがないし、滲み出なければおもしろくないんだよな。

おれはべつに、誰もが誰も、誰にとってもおもしろいものを書く必要はないと思っている。そんなのは無理だ。みんな好きに書けばいい。おれも好きに書いているだけだ。でも、いくらかは人になにかが届けばいいと思うし、誰かがおれになにかを届けてくれたらうれしいと思う。「精神の公正さ」なんて高尚なものはべつにいいんだ。ただ、あなたの腹の底を見せてくれ。それは恥ずかしいことだろうし、痛みを伴うかもしれない。だったら、装飾でごまかしてもいいし、本当の本当のところは隠し通したっていい。でも、ひょっとしたらそこに誰かにとっての何かがあって、得るものがあるかもしれない。それは悪くないことだ。

有史以来、今ほど書き手になりうる人間が多い時代もないだろう。それをだれかに届けられる手段がある時代もないだろう。これがいったいどんな時代なのか、百年、千年後に判断されるかもしれない。ひょっとしたら、こんな風潮はまったく消えてなくなってしまうかもしれない。けれども、おれやあなたが書いたものが、デジタルの墓標となって、百年、千年、ネットの海を漂う可能性がないわけでもない。将来の人類に、「大昔にも自分と同じようなことを考えている人間がいたんだ」とか思われたら、ちょっとは人生のなぐさめにならないだろうか。あるいは、昼飯で食ったラーメンの感想が価値を持つかもしれない。ブログの収支報告や「いかがでしたか?」ブログが何らかの資料になるかもしれない。そんなことは想像の埒外だ。おれが書いたもののなかでも、馬券の収支が一番価値のあるものになるかもしれない。

でも、やっぱりなんか晒していこう。書いていこう。できるだけ良い姿勢で、自分のたたずまいが千年残るように。そっちのほうが、きっとおもしろいぜ。たぶん。……とか言ってるおれが、酔っ払ってアニメ見ながら書き散らかしてるだけだってことは内緒だぜ。

 

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

goldhead.hatenablog.com

はてなの中の人は「10年後もユーザーの皆さんとともにあるサービスを目指し続けたいと思っています」と仰るが、十年じゃだめだ。百年だ、いや、千年だ、千年。千年企業を目指せ。人間の魂の乗り物になるんだ。

 

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 最近、カテドラルって馬が走ってるんだけど、馬名を見るたびにレイモンド・カーヴァーを思い出すんだよな。ハーツクライの子だから、これからまだまだ成長するかもしれないぜ。

 

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

 

戦争についての言説についての実にいい指摘があったと思うのだけれど(ティム・オブライエンベトナム戦争に従軍した)、その文言を忘れてしまった。この本を掘り返すのは、無理。