『夢のある部屋』澁澤龍彦

夢のある部屋 (河出文庫)

 夏の夜は短く、私の住んでいる鎌倉では、夜のしらじら明けに、澄み切った声でヒグラシが鳴く。朝鳴くのに日暮らしとは、おかしな蝉の名前であるが、徹夜の仕事を終えて、風呂の中で聞くヒグラシの大合唱は、疲れた頭をやさしく慰撫してくれる。またとない自然の贈り物のように私は思われる。

 私の住んでいた鎌倉は、片瀬の山の上にあって、澁澤御大が隠れ暮らしていた北鎌倉とは趣が違うのだけれど、黎明の頃のヒグラシの合唱はよく覚えている。四季折々のさまざまな鳥とも獣とも虫ともわからぬ不思議の鳴き声もよく覚えている。その時々の空の色、雲の形、風のにおい、そしてそれらあやかしの音々……、何かとどめる術はないのかと思いながら、思っただけですべて失われてしまった。すべては朦朧の記憶の中の話になってしまった。しかし、その一端を澁澤龍彦に、田村隆一に、さまざまな文人の中に見つけられる。これぞ鎌倉に住んだ者の僥倖といえるかもしれない。
 さて、この本は「いずれも筆者がリラックスして書いたものだから、ごく軽く読みとばしていただきたいと思う」とあるとおり、ずいぶんに軽い仕上がりとなっている。いよいよ河出文庫の澁澤シリーズもネタ切れか、というわけでもあるまいが、寄せ集めに写真まで付けてみましたといった感じだ。ここに集められた内容も、女性向きだったり、本来の澁澤ファン向けでなかったりで、特に膝を打って感心するようなものではない。あるいは、あまり澁澤の作品に接したことのない人が見たら、紋切り型の文明批評やちょっと気障なキャラに辟易するかもしれない。しかし、一応いろいろと読んだことのある人間から見ると、読者対象やテーマに応じて器用に立ち回っているな、という感じで、すぐれた文筆業者としての澁澤を改めて見る思いがするのである。
 というわけで、あまり手放しにすぐれたエッセイ集とは言えないけれど、ファミ通のレビュー風に言うならば「ファンなら買い」といったところだろう。ところでこの文庫、私にしては珍しく普通の本屋で買ったのだけれど、七百三十円という価格に少し驚いてしまった。文庫本というのは、もう少し安いものじゃなかったのか。