山手の教会の火事について

山手聖公会 修復「技術的に可能」
http://mytown.asahi.com/kanagawa/news01.asp?kiji=6318
 いま私が住んでいるのは山手の辺りだ、というのは多少不正確かもしれない。正確を期すならば、山手駅を利用する範囲に住んでいるといったところだろう。そして、火事のあった山手聖公会は、線路のある谷を挟んだ向こうの山の上、という印象だ。だから、この火事も今朝のワイドショーでくわしく報道されるまで知らなかったものである。
 しかし、この山手聖公会のあたり、すなわち洋館の建ち並ぶあたりは訪れたこともあり、さきほどフォルダの中をかき回してみたら、この教会の写真も出てきた。そうだ、この教会は背が高く、しかし目の前の道は細く、うまく写真に収まらないのだ。そのうえ、どうしても電線が建物の前を横切ることになってしまい、せっかく美しい建築物も台無しといったところだ。
 ところで、火を放った犯人の米国人青年は、「なぜ火を付けたか自分でもわからない」と供述しているという。あるいは、誤ったミシマ的ジャポニズムにでも影響を受けたのだろうか。焼け落ちる美しい聖堂の姿を見たい、とでも。
 不謹慎の謗りを承知で書かせてもらうならば、それは確かに一つの美と言えるかもしれない。そしてそれは、木と紙でできた日本の寺が焼けるのとは、また違った趣があるだろう。よく、ネット上などで火事が似合う建造物として「洋館」が挙がる。ホラーやサスペンスなどのステロタイプを指摘したものだが、たしかに石やコンクリートでできた重厚な館に火が放たれる姿には、より悲劇的、象徴的なイメージがあるように思われる。先ほど「焼け落ちる」と書いたが、簡単に焼け落ちはしない。炎の中に毅然としてあり、そのシルエットを浮かび上がらせるのである。
 山手聖公会は、二次大戦の空襲でも屋根が焼け落ちたという。歴史にあって人の気まぐれで二度も焼かれながら、また再びその姿を現すのだろう。修復がなされたそののちに、畏敬の念をもってその姿を拝みに行こうと思う。谷を越え、山を登り。