『紅い花』/『つげ義春とぼく』つげ義春

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 『無能の人』、『貧困旅行記』ときて、この二作を読んだ。手に入れられたものから読んでいるので、あえてどうこうということはない。この二冊にしても、それぞれ収録されているものは時系列的にバラバラという感じなので、それでぜんぜん構わないとも思う。
 さて、『紅い花』を読んでみて、やはりこれはすごいものだと思った。恐ろしいほどの、何かの密度だ。いろいろなところでパロディ、あるいはオマージュされているようなものの、そのものだ。なるほど、いろいろなところでそうなるだけのものだ。いや、そんな比較対象はいらない。そんな感じだ。「海辺の叙景」、「李さん一家」のラスト、「近所の景色」の雷魚、いや、挙げだしたらきりがない。なんだかもう、困ってしまう。今までこれらの作品は、数えきれないくらい多くの人を困らせ、語らせてきたんだろう。「名前は知っているけれど」で終わらせなくてよかったと思う。本当に。
 ちなみに、これを読み終えたあと、桜玉吉の漫画を読んでみたりした。なんだかちょっとあっさりしているな、と思った。まあ、ああいった作品の後に濃く感じるものなどないだろう。ついでに、水木しげるの『昭和史』の、つげ義春が出てくるところも読み返したりした。詩人でナイーブだから、というような描かれ方で、最後はつげさんが行方不明になって、自殺したんじゃないかと右往左往するようなエピソードだった。もっとも、そこは水木先生の右腕が描かれている箇所だったので、どこまで本当のことかは知らない(実際の自殺未遂については下の本の方で本人が詳細に書いている)。
 『つげ義春とぼく』は、一点もののイラスト、『貧困旅行記』よりもメモ的な旅行記に、夢そのものの夢日記、断片的な回想記などによって構成されている。作品集についていたあとがきだけ載っていたりもして、正直、寄せ集めという感じがした。しかしながら、それぞれに何とも読ませるものなのだから不思議だ。
 中でも、夢日記はすごかった。普通、夢について記述しようとすると、どうしても理性や遠慮のフィルタが入ってしまうのではないだろうか。自分も中学だったか高校のころ、詳細な夢日記をつけていたことがある。誰に見せるでもなく、単に自分が自分の夢を保存しておこうというだけのものだ。それなのに、あからさまに性的なものや、近しい人のよからぬ登場は書くのをためらってしまう。また、一つの夢の中で、まったく繋がりのない場面を二つ覚えていると、どうしてもその繋がりを補おうとしたり、片方を無かったことにしたくなる。つげ義春夢日記、一切そんなところなし。夢そのもの。もちろん、それが本当につげの見た夢かどうかなど、つげ本人にしかわからない。創作が入っていてこれならば、さらにすごい。だいたい、夢の真実性などナンセンスだ。
 しかしまあ、不思議な人だ。そんな風に思っていたら、巻末解説の伊集院静が面白いことを書いていた。つげ義春は昔の遊び人、渡世人風だというのだ。なるほど、と思った。内面的、自省的で文学的タイプと漠然と思っていたが、『貧困旅行記』の最初の一編を読んで感じた違和感。そうか、プレイボーイでもあるのか。また、そうじゃなきゃ「エロッポイ」作品にもならんのだろうし。いやはや、庶民もニヒリストも顔無しの存在には違いない。