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松岡正剛のサイト(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1161.html)で取り上げられており、これは読まねばと思う。Amazon、マーケットプレイス、計八百円ほど。
●「風宴」
昼御飯に私は近くの食堂に行き、油濃い魚の煮付をおかずにして飯をむさぼり食べた。それから部屋に戻ってきて、何もすることが無かったから、寝床をしいて無理矢理に眠った。わけのわからない夢が切れたりつながっていたりしていたとき、風が出て来たと見えて、私は頭のどこかで濁った風の音を遠くに聞いていた。硝子戸越しに喬木の梢が坐っている私の眼に見える。医学書にある神経図に似た梢が俄にゆらゆらと動いた。それと一緒に硝子にあたる風の音を私は聞いた。私は手を伸ばして窓を開けた。
って「風宴」の二ページ目ぇ読んで、なんだかわからんけど、すごくいい、いいよこれ、ビューだよ、買ってよかったよって思った。無理矢理眠ってわけのわからない夢、頭のどこかで聞いている風の音、坐っているって、たぶん寝ていて、喬木の梢は頭の中の神経図が風にあたるかのようで、このどうしようもない「何もすることが無かったから」感の出てくるところのよさ、いつの世もかわらないだめな感じ、かとか。そしてこの「風宴」のある種の不条理さ、行きずり、引きずられ、その感のおもしろさといったらない。あと三編の戦争物も戦争という特殊な場だけれど、どこかしらこういったダメ人間感、といってはなんだけれども、そういうのはあると思う。
●「桜島」
(これが、特攻隊員か)
丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。
巻末解説で、「坊ノ津の震洋特攻隊の存在を作中から完全に抹殺したのである」とあり、そのへんは上の松岡正剛の文中にもとりあげられているけれど、坊津の基地にいたときに見たことがある、とこんな風に記されているのは別問題なのだろうか。やはり、作者自身とのもっと深い関わりを描かなければ、「完全に抹殺」というのがこのクラスで問われる表現なんだろうか。わからん。ちなみに、単に馬鹿にしているわけではなく、「悲しみとも憤りともつかぬ感情」を持ち、「此の気持ちだけは、どうにも整理がつきかね」、「今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている」と。しかし、この突き放し距離感がかえってアレなのかね。
検索したら、この箇所の記述について、当の特攻隊員の方の意見が出てきた(http://scrapbook.ameba.jp/kyushu-fun_book/entry-10017816595.html)。うーん、俺は、この箇所が「戦争に対する嫌悪感を、特攻隊員のニヒリスティックな振る舞いに象徴させた」とも思えない。みなが米軍上陸と死を予感しているなか、作者や作者の分身たる主人公もその一人であって、一方的に断罪しているわけではないし、あるいは、そのときに「私的制裁」された、というのが、まあ、先の推論か。でも、特攻隊の話は、飛んでいる訓練機を見かけて思い出したまでの部分。メーンは吉良兵曹長との関わりや、見張り兵なんだけど、戦争に対する嫌悪感、はもちろんあるにせよ、そこへの抗いや「反戦」みたいなものよりも、その状況下の、諦めとか、不条理さとか、虚無感もあって、やはりそこは、ニヒリズムにちかいのかもとか。でも、最後に「瞼を焼くような熱い涙」を流すのだ。
●「日の果て」
南方もの。フィリッピンで現地の女と逃亡した軍医の射殺命令を受けた主人公の話。行き場のない戦場に、人間のどろどろ、自然ばかりが美しい。
●「幻化」
精神を病んだ中年男が、戦時を過ごした坊津、鹿児島、熊本へ……というわけで、「桜島」の続編、と呼ぶと安っぽいし、別の主人公なのだが、やはりこの、こう一冊の文庫に編集されているのはすばらしい。ほか三編とのバランスも最高だ。くそったれ、上手く言葉にできないや。この狂った感じ、なんともいえない。濱邊で一人チンドン屋の踊りをするシーンとかもう、もう。まあいいや。
◇戦中派、九州の旅など、田村隆一(id:goldhead:20060711#p4)の旅を思い出す。詩人もまた、「連日遊びほうけた」(「桜島」)に近いような立場、しかし、死の覚悟、終戦。語られる戦争において、いつも自然は、特に空は鮮明なようで。
◇震洋といえば、島尾敏雄の『魚雷艇学生』(id:goldhead:20050413#p1)を思い出す。これをパラパラとめくり返せば、梅崎の描きようとはまた違う。当たり前だ、立場によって見え方は違う。一口に戦争は語れないのだろう。要約せざるもの。
◇同じく九州への旅、この精神病者の蒸発、つげ義春を思い出す。どうにも、「幻化」の<五郎>の不安、無軌道なエロさ、妙な他人たち、つげ義春にとても近いように思える。というか、ほかの作品もどこかしらそんなふうで、この本を絵で描くとすれば、つげ義春でしか思い浮かべない(水木しげるもあるか)。ともかく、つげ義春のある種の感覚と、この梅崎はとても似ているような気がする、近いような気がする。
◇「幻化」の奇妙な同行者、丹尾には、あるい具体的なイメージが浮かんだ。映画『バージンブルース』(id:goldhead:20060725#p2)の長門裕之演じる中年男。あれもまた、戦中派、だったのだろうか。